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良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています

ひよこシステム

  • 400字詰原稿用紙換算20枚程度

 息子のキヨシはもう寝るところだ。布団から頭だけ出して、目はとろんとしている。父親であるおれは、畳に敷かれた布団の隅に膝をついて、キヨシの頭を撫でる。布団サイドストーリーを物語る準備をする。 

  キヨシを寝かしつけるのはいつも律ちゃんの役目だが、今日は夕飯のときにキヨシから「お父さんって、寝る前におはなしをするあれ、できないんでしょ?」と挑発され、おれがやらないわけにはいかなくなった。 

「お父さんだってできるさ。お父さんが小学生のときに考えた、最強のお話をこれから聞かしてやる」

「ほんと?」

「ああ」

 何年生だったか小学生の頃に、自主学習ノートを毎日1ページ書いてくるという宿題があった。テーマは自由で、なんでもいいからなにか調べて書かなければいけない。そんなこと毎日やってられない。おれは何も調べたくなくて、てきとうに物語を書いて提出していた。 

  物語には花丸がついた。当時はおれって天才って思ったが、いま思えば、先生も物語なんてあがってきてどうしていいかよくわかんないから、とりあえず花丸をつけたんだろうな。おれはいま、そのときに作った物語の筋を思い出しているところである。

  あんまりよく覚えてない。でもキヨシの期待には応えたい。おれはたどたどしく物語る。

「主人公はひよこだ。かわいいひよこで、ひよこだけど翼を手みたいに使って、物を運んだりできる。ひよこは甘いものが好きで特にケーキが大好きだ。でもある日、ひよこがうちに帰ってくると、楽しみにしてたケーキがない。机の上に置いといたはずなのに。ひよこは慌ててきょろきょろと辺りを見回す。そうすると、窓からケーキの箱をもって出ていこうとする泥棒がいるじゃないか。おれのケーキ! 泥棒なんて怖いやつかもしれないし、危ないけど、考えなしにひよこは走って泥棒を追いかける。ケーキが好きだから。ここから、泥棒とひよこのデッドチェイス。とにかく白熱する。途中で泥棒が下水道に逃げ込んだりするし、後を追って降りた下水道には、野生化したワニがいたりする。でも最後は勇気とか智恵でひよこは絶体絶命を乗り切って、泥棒の背中めがけてひよこキック! 決まったぜ! ひよこはケーキを取り返しす。そんで家に帰ってケーキの箱を開ける、そうすると、ええっと」

 なんだっけ。

「ひよこはケーキ食べれたの?」

「いや、どうだったかな。無事においしいケーキを食べれた気もするし、箱を開けるとケーキは崩れちゃってて、がっかり、あららーって話だった気もするし」

「どっち?」

「どっちだったかな? 忘れちゃったな」

「おとなって、肝心のとこを忘れる」

「そうかー? そうかもな?」

 我ながら締まりのない話だけど、だからこそなのか、睡眠導入にはぴったりのようで、いつのまにかキヨシは瞼を閉じていた。もう寝ているかもしれない。

 「おやすみ」と声をかけると、かろうじて「おやすみ」と返事があった。


 小学生になったからひとりで寝る。そう宣言したのは他でもないキヨシ本人だ。けれど、キヨシはまだ寝る前にこうやって、誰かに付いていてもらえないと眠れない。忍び足でキヨシのもとを離れ、そっと引き戸を閉めて、リビングに戻る。

「キヨシ寝たぞー」

 キヨシのお母さんでおれのお嫁さんの律ちゃんは、冷蔵庫から缶ビールを取り出して「おつかれー、ありがとー、ほいビール」と手渡してくれる。

律ちゃんは自分の分のビールも取り出し、ぷしゅっとプルタブをあげる。おれもぷしゅっ。乾杯!

  アルミ缶同士だからぶつけあってもチーンっていわない。それでも一日の終わりの一口目は、全身に染み入る。旨い!

「くー、これこれ、これがあれば、嫌なことも忘れられるよなー」

「へ? なに? なんか嫌なことあったの?」

 ビール片手に二人並んでソファに座っていた。おれの言葉に、聞き捨てならんと、律ちゃんは体育座りで90度回転して、おれのほうに向き合ってくれる。

「え、あー、うん、なんだっけ。あれ、まじで忘れちゃったな、ビール飲んだら。今日ちょっと落ち込んだ気がするんだけどな」

「ほんと?」

「あ、うん。ほら、キヨシの寝顔もかわいいしなあ」

 心配かけたくないとかでなく、おれはほんとに忘れていた。おれはけっこうほんとに忘れる。律ちゃんもそれを知っているから、それほど気に留めず、ちょっと赤くなった顔で、にやりと笑った。

「ビールが先か、嫌なことが先か」

「へ?」

「嫌なことがあるからビールを飲むのか、うまいビールを飲むために、嫌なことにも取り組もうとするのか」

「なにそれ。哲学的じゃん」

 思わず笑うと、律ちゃんも得意げに「へへへ」と笑った。

「こないだ満月だったしね」

「そっか、満月かあ」それって関係ある? と思うけど、なんかある気もするし、おれは「なら仕方ねえな」と、消えかかったビールの泡を舐める。夜はゆっくりと更けていく。

 次の日の朝ご飯は目玉焼きで、ハムも下敷きで、しいていうならハムエッグ。ワンプレートには千切ったレタス、トースターで焼いた食パンも載せてある。

「うさぎのエサー!」

 レタスを指でつまみながら、真新しいランドセルを傍らに置いて、キヨシが叫ぶ。

「エサって何よー」

  律ちゃんはそう言って怒るけど、キヨシには意味がわかんないだろう。小学校ではうさぎを飼っているらしく、キヨシはいま、うさぎにすごくハマっている。そうであるがゆえにキヨシのなかでは、アフリカの子どもよりうさぎのほうが大事って感じになっており、うさぎのエサというものも、さながら聖体みたいな扱い。うさぎのエサとは言ったって、「あらまあ朝からこんなすごいもの食べられてラッキー」、それくらいのニュアンスなんじゃ? 

「ねえどう思う?」律ちゃんはおれに訊いてくる。「キヨシさー、葉物の野菜をぜんぶ同じだと思ってんのよね。レタスとキャベツの区別ができてないのよ。学校でうさぎのエサにしてるのって、わたしぜったいキャベツだと思うのよね。うさぎの栄養のこと考えてもさあ……」

 キヨシと律ちゃんのやり取りに関するおれの心配は的外れで、うさぎの栄養に関する律ちゃんの講義は、右から左に抜けていく。覚えが悪く忘れっぽい。おれの頭はひよこシステム。



 でもひよこシステムは上司には不評だ。社会人ならもっと責任を持って、割り当てられた仕事をこなすべきらしい。出社して早々、おれは上司から大目玉を食らう。

  仕事を請け負ったのは営業の人たちで、実際に作業するのはおれたちエンジニア、そしたら仕事の仕組み上、できないことをやるって感じになるときもあるし、でも、できないことはどうあってもやっぱりできないし、どうしようもないこともあると思う。上司には「あー、はい、スミマセン」って言っとくけれど。

  いちおう指先の感覚がなくなって頭がぼーっとしてくるくらいはおれたちみんな頑張ったよ。ま、上司が怒るのも立場上しかたないけど。

  こんななかでやっていくために、おれは自分のひよこシステムってけっこう必要だと思う。けど、肝心なところまで忘れちゃう問題については、昨晩キヨシにも怒られたしなあ。忘れちゃいけない肝心なところと、忘れたほうがいい肝心でないところを、分けなきゃいけないのかな。でもそれって、どうやって決めるんだろう。

  働くのはお金のためで、お金は生活のためで、生活は働くためで。ビールが先か、嫌なことが先か。たまごが先か、にわとりが先か。

   あれ、ひよこは?

 そうだ、帰りにケーキを買おう。

 おれは、おれの最強のひよこの話のオチを、どうにか思い出せないものか、考え始める。そうしながら、なんかまだ怒っている上司の言葉を聞き流している。思い出しながら忘れる。双方向性ひよこシステム。ソースコードは進化している。


 でも、おれときたらまた忘れちゃって、ケーキを買っていないことに、帰りの電車のなかで気が付いた。車両の扉が閉まっていく。しまった。もう駅ビルのおいしいケーキ屋さんまで戻ることはできない(というか、戻れるけど、すごくめんどくさいのだ)。

  最寄りの駅から自宅マンションまでにあるケーキスポットは、あとはもうコンビニだけ。コンビニじゃだめだ意味ないんだよ。最強のひよこの話に出てきたケーキはコンビニケーキじゃない。

  こりゃだめだ残念また明日。頭のなかに鳴り響くゴングの音は、試合の始まりじゃなくて終わり。燃え尽きたおれは電車の空いているところに座る。朝の電車はあんなにぐちゃ混みなのに、帰りの夕方の電車では座れることも多い。これって、その分残業してる人が多いから? だとしたらなんかやべえなあ。

  一駅過ぎて、ぴんぽーんぴんぽーんと扉の開閉音が鳴る。乗り降りの少ない駅だから誰も動かず、スカで終わるかと思いきや、カツカツカツカツってヒールが折れるんじゃないかと心配になる足音で、女の人が駆け込み乗車をしてくる。

女の人は美人で知的なお姉さんで、はあ、はあ、と肩で息をして、ふー、とまた息を整えてから、おれの隣の座席に腰を下ろした。

  ラッキー! って、なにもラッキーということはないけど。

  美人のお姉さんは右手に持っていた高そうなハンドバックを膝の上に置いて、左手に持っていた紙袋を足元に置く。

  よく見るとその紙袋は、おれが買うはずだった駅ビルチェーン店のケーキ屋のものだった。ケーキだ。いいなあ。でも中身は違うのかな。紙袋だけとっといて使ってんのかな。

  美人のお姉さんはハンドバックからkindle paperwhiteを取り出し、お洒落に洋書を読みだした。その隙に未練がましく、おれは紙袋を覗く。ケーキ屋の紙袋にはきちんとケーキ屋の紙箱が入っていた。ケーキと一緒に高そうな財布も、ごろんと入っている。これは不用心。ケーキを買ったときバックにしまうのがめんどくさかったのかな。けっこうものぐさなのかな。

  おれは失礼に当たらないように、眼と首を微妙に動かすだけで紙袋を覗いていたはずだ。それなのに、ぬうっとケーキの紙箱と財布のうえに、人影が被さった。

  視線をあげると、ニット帽を被ってサングラスをかけた男が、吊革に体重を預けて、お姉さんの紙袋を覗いている。めっちゃ怪しい。

  ぴんぽーんぴんぽーん。

  また扉の開閉をめぐる間抜けな音、今度もあまり乗降はない。怪しい男が動いたのは、扉の閉まる直前だった。サッと手を伸ばして美人のお姉さんのケーキ屋の紙袋をひったくって、脱兎の如く車両から出て行く。

  反射的におれは立ち上がった。もともとない運動神経にフルスロットルいれて、男の跡を追いかけた。けれど閉まる扉にガシッと頭を挟まれて、いってええ、おれまたバカになるじゃん。あやしい男は遠のいていく。

  駆け込み乗車ならぬ駆け込み降車に注目を集めながら、扉は開く、おれは解放される。美人のお姉さんもおれが挟まれているあいだに事態に気付いて、電車を一緒に降りたみたいだけど、きちんと確認する暇もない。もうホームの階段を駆け上がっていって見えなくなりそうな怪しい男を追って、おれは走る。

  おれなんでこんな走ってんだろう? だってあいつ突然盗むもんだからびっくりして。財布入ってたし。ほらお姉さんも美人だし?

 おれも泥棒も改札はSuicaでスムーズに通過! 駅員は、大のおとな2人が走っているというイレギュラーなシチュエーションから、なにか異変を感じ取ってもいいだろうに「改札は歩いて通過してください!」と叫ぶだけ、廊下は走っちゃいけませんレベルの注意しかこっちに向けない。機動隊くらい呼んでくれ。

  改札を出てからも兎に角走る。こらー、待てーっ! とか言うべきか? そうしたら、待つわけねえだろバーカ、とか言い返してくれるのか?

  怪しい泥棒は、おれにすごく驚いてるみたいだ。そりゃそうだ。おれのもの奪ったんじゃないのにね。おれと美人のお姉さんはとても釣り合う感じに見えないし、親しげでもないし、明らかに何の関係もなさそう、あるはずがなかったもんな。うるせえやい。

 ひと気の少ない路地裏に入っていったのを追っていくと、男は曲がったところで待ち構えていて、殴りかかってきた。避けることなんてできるはずもなく、右の頬を打たれる。差し出すわけではないにしろ、おれは殴られるとか高校時代ぶりだし、茫然としてたら左の頬も殴られ、でも2回攻撃食らった時点でこいつ思ったより強くないぞ、そう確信する。よく考えたら運動不足のシステムエンジニアの足でも、追いつける相手だもんな。

  自分のが強いとわかったらなんか気が大きくなってきて、おれは果敢に殴り返した。戦いになりそうだ。でも本格的に戦いの火蓋が切って落とされるまえに、美人のお姉さんが追いついてきて、「あそこ、あの人です!」とこっちを指差した。

  制服を着たお巡りさんも、美人のお姉さんと一緒にいた。違います、お巡りさん、おれじゃありません。あ、これ、殴りあってるけど、正当防衛? だよね? あれいまおれ免許証持ってたっけ? 交通取締まりのトラウマが疼いて怯えるおれ。おれはなんでここにいるのか。繰り返されるひよこ。

 警察の人は犯人を間違えなかった。よかった。おれの暴力行為も不問になって、美人のお姉さんはすごく感謝感激してくれた。

  あの、今度お礼を、そんないい雰囲気になりかけて、連絡先とかをくれそうだったけど、こんな美人の連絡先を持ってたら、律ちゃんそれだけでキレるだろうし、「いえ、お気になさらず、当然のことです」そう言っておれは断る。ダンディでジェントル。

「あ、そうだ。でも、どうしても何かっておっしゃるなら、そのケーキとか譲っていただいてもよかったりとか……?」

 挙動不審になされた非常識なおれの提案で、ダンディ&ジェントルは台無しだ。しかし、ついさっきまで頭のなかが財布の危機でいっぱいになってたっぽい美人のお姉さんは「どうぞどうぞ」と快くケーキをくれた。

「あのこれ、箱の中身、何のケーキですか?」

「あ、ホールです。苺ショートの」

まじかよ。やったぜキヨシ! おれたちの大好物だ!


 高台にある最寄り駅から、坂を下って自宅マンションへ向かう。行きは辛いが帰りはよいよい。宵闇のなかに建ち並ぶなかで、街の明かりは、丸くぼやける。色とりどりのたまごが並ぶ。

  こういう美しい夜景のせいで日本列島は宇宙から見たとき光って見えて、それはエネルギーの無駄遣いってことらしい。

  つまりそれは、坂の上から見えるカラフルなたまごに、エネルギーが詰まってるってことだろうか。たまご・にわとりは確かに一苦労だ。毎日は切れ目なく続く。

  けっこう急な坂道で、遠くを見ていたおれは躓きそうになった。坂といえば、昔、キヨシくらいの歳の頃、ダンゴ虫をバケツ一杯に貯め、傾斜のきつい坂の上に運んでは、一気にバケツをひっくり返し、ダンゴ虫の雪崩を起こす壮絶な遊びをしてたっけ。

  なんであんなことやったんだろう。そんな理由のないことを、キヨシもやるだろうか? もしやるなら、車のあまり通らない道でやるよう伝えなければ。ダンゴ虫とキヨシの安全のために。


 おれはケーキ屋の箱を片手に、酔っぱらいによる伝説の、寿司買ってきたぞー、を再現しようとしたが、「なに!? どうしたのその顔!?」と律ちゃんにすごく驚かれて、それどころではなくなった。顔、そんなに腫れてるのかな。

  律ちゃんは薬箱を取りに廊下をUターンしていった。一緒に玄関までおれを迎えに来たキヨシも、おれの顔をみてびっくりして立ち尽くしている。

「お父さんな、ケーキのために戦ったぞ。ケーキもタダじゃないからな」

 キヨシは神妙に頷く。頷かれるのは嬉しい。働きが認められた気がする。

  キヨシはケーキの紙袋を指差した。

「ケーキ、崩れてがっかりなの? それとも美味しく食べれるの?」

 言葉で答えずに、おれは口角を上げた。どうかな、そりゃあ、開けてみないとわかんないな。けっこう走ったし戦いもあったし、ある程度の衝撃はあったと思うけど、崩れてがっかりってほどかというと、どうだろう? 

  おれは知ってて教えないとかではなく、ほんとうにわからない。結末は、開けてみるまで分からない。

 どうやら肝心なことは、思い出せずとも、復活することがあるらしい。覚えたり忘れたり、知らず知らずのうちに、おれはあの物語のなかの、最強のひよこになっている。

(了)


ロンドンと火星

映画を見てきました。
パディントンとオデッセイです。


本物のクマと現実で暮らす
プーさんもテッドも(テッドも?)、かわいいクマはぬいぐるみだった。けれどパディントンはほんもののクマ。ペルーの山奥に住んでいた、かしこいほんもののクマ。"パディントン"は彼の英語圏での名前に過ぎず、本名は、…発音できないし、表記できない、クマのなまえ。故郷でいろいろあったパディントンは、ジュール・ベルヌが幼い頃にやろうとして失敗した(と言い伝えられるような)方法で海を渡り、文明の地・ロンドンにたどり着く。いろいろあってブラウン一家に拾われ、居候になる。

パディントンは、とても面白い映画だった。パディントンについて話そうとするとき、スポットを当てうるところはたくさんあると思う。ロンドンのひとびとの文化から見て、異質であり他者であるパディントンが、どう居場所を見つけるか、とか。でも、それは"興味深く"とも、"面白い"ところではない。"面白い"のはたぶん、ふさふさとしたパディントンの野性味溢るるかわいい動きとか、ギャップのある淡々とした声(字幕版で見ました)とか、どうやらだいぶ変わっているらしいブラウン一家のひとびとと、パディントンとの掛け合いとか、あとは数々の緊迫の瞬間、アクションシーン! ——そういうエンターテインメントなるものを、なんとなくイギリスっぽくもあるユーモアによって包んだうえでできるものだと思う。バランス感覚はほとんど完璧だ。勉強になる。

ユーモア。イギリス流の皮肉っぽいユーモアは、どっかひとを小馬鹿にするところがあったりもするイメージだけれど、パディントンでのユーモアは、あまり嫌な気持ちを抱かせない。毒気は残るし、決して単に食べやすいだけのピリ辛ではないのに、誰かを眼の前でからかって笑うような雰囲気が、あんまりない。それはブラウン一家もパディントンも、彼/彼女らはみんな、普段はそうやって世間に「からかわれて」いるひとたちで、物語があくまで彼/彼女らの視点から、——主にパディントンの視点を軸に——展開されるからかもしれない。

そうしていつのまにか、映画を見ているわれわれまでパディントンたちの側に立っている。そうすれば世間を笑うことこそできようとも、パディントンたちを笑うことはできない。ぼくはパディントンとハトの交流が好きだった。あとはケチャップ。それとも階段をのぼるとこ? お隣さんもなかなかだし、お風呂場騒動はやっぱり見事——ユーモアは基本的に思い出しきれないペースで乱発される。うまい鉄砲で数をうつので、仏頂面のあなたにも、命中すること間違いなし。

そう、だからブラウン一家の面々が物語のなかで果たす役割も大きい。物語のなかでは一家の面々の悩みがダイジェスト版で、すばらしいプレゼンテーションの形で報告され、それは解決したのかしてないのか、悪化したのか、なんだかわからないところに着地する。みんなあんまり変わってないかもしれないけれど、前よりも幸せそうになる。哀しみを抱えたパディントンは、ロンドンでたった一匹のクマで、これからもいろいろあるだろうけれど、いまは落ち着いて過ごしている。おめでとうパディントン。ロンドンの街には変なひとが多いんだって。パディントンはまだしばらく、大都会ロンドンに住むブラウン一家と暮らせそうだ。

大都会ロンドンでパディントンは暮らしていくだろう。でもパディントンは、やっぱりちょっとペルーの大自然を懐かしむこともある。パディントンはペットじゃないし、野生のクマだし、ペルーの大自然でのいい思い出もたくさんあるのだから。

パディントン」はロンドンを舞台にした映画だ。西洋文明社会を舞台にした映画だ。パディントンは人間たちの文化に感銘を受けっぱなし。人間たちは、パディントンの持ち込んだ文化に頬を引きつらせっぱなし。通りすがりのひとにいたってはパディントンの存在すらも無視してしまう。でもブラウン一家だけはパディントンを無視しなかった。パディントンの持ち込んだ世界に触れて、散々手こずって投げ出したくなりながら、でもいつのまにか、簡単には手放せないものを見つけていた。それはパディントンと出会わなければなかったものだ。もちろん、パディントンと出会ったせいで、ブラウン一家が失うものもあるのだろう(少なくともクマ一匹分の保険料はかかっているし、父親は、保険が適用されそうにない冒険心に目覚めてしまった)。

見終わったあと、ぼくはうちにもパディントンが来たらいいのにと思った。でもパディントンはとても珍しい種類のクマだし、うちには来ないだろう。ただ、ふだんは面倒で目を背けているようなことは、パディントンの代わりになるかもしれない。そういう知らないことと向き合うことは、新しい場所に繋がっているのかもしれない。

※他の重要なことに、パディントンと言語の問題がある。といっても、ここで難解な言語哲学について語るつもりはない、というか、それはぼくにはできない。ただ、作中において、パディントンが「喋れる賢いクマ」であることは、とても重要だと言っておきたい。パディントンたちは賢かったから、冒険家に「文明的」だと判断されて、殺されなかった。マーマレードを分けてもらって、ロンドンへの憧れを募らせた。パディントンは「ただのクマ」ではなくて「特別なクマ」で、知能という点で「人間に近い」クマだった。その点では、パディントンはほんもののクマなのだけど、ほんもののクマと全然違う。それはたしかにそうだ。ただ、だからといって、現実に人間がクマと触れ合えないというわけじゃないし、それはパディントンという映画の、主張するところではないと思う。パディントンは固有の生活史を刻む生きたクマだから。ぼくはヴォイテクのことを思い出す。ポーランドで従軍したほんもののクマ。ヴォイテクと交流して兵士が感じたことは、ブラウン一家よりもっと、エポックメイキングでパラダイムシフトでコペルニクス的転回、だったかもしれない(だってヴォイテクは喋れない!)。あるいはオオカミの群れのなかで暮らしていた男の話を思い出してもいいかもしれない。他の世界は恐ろしく、一度足を踏み入れたら二度と戻れない。けれどその先には、見たことないものがあるだろう、それが希望か絶望かは、わからない。

兵士になったクマ ヴォイテク

兵士になったクマ ヴォイテク

  • 作者: ビビ・デュモンタック,フィリップホプマン,Bibi Dumon Tak,Philip Hopman,長野徹
  • 出版社/メーカー: 汐文社
  • 発売日: 2015/08

狼の群れと暮らした男

狼の群れと暮らした男

  • 作者: ショーンエリス,ペニージューノ,小牟田康彦
  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2012/08/24

タフガイはどこか儚い
ペルーからロンドンに行くより、もっとすごい移動をしているのが、宇宙飛行士だ。だから宇宙飛行士が主人公のオデッセイを見れば、もっともっと、遠くに思いを馳せられるはず。そう考えて見に行った、というわけでもなかったけれど、オデッセイはすこし肩透かしな映画でもあった。

一方で、妙な高揚感や、感動もたしかにあった。火星の映像はきれいだ。何がどうとか言えないけど最近のCGってすごい。取り残された場所でひとりぼっちに暮らすマット・デイモンも、ジャガイモ育てたりとか、たいへんそう。寂しそうだし、鎮静剤飲んだりもするけれど、でもなんかマット・デイモンは強靭で、あまりへこたれない。彼には植物学と、宇宙飛行士としての知識がついてる。祖国を背負う自負がある。科学の未来も。マット・デイモンは文武両道のタフガイだ。未来は彼に託された。人類の進歩と調和。

この映画、舞台は近未来のはずだ。でも、あんまり、現実味を感じない。もうすぐ世界が映画に追いつきそうだとか、いつかはこんな暮らしがとか、ぼくはオデッセイを見て、そんな風には感じられないのだった。別に、SFとして科学的考証にたえないとかそういうことではない(そのような考証もぼくにはできない)。現実味を感じないというのは、いま、ここで、ぼくが、現実味を感じないということだ。

なんていったらいいか、こういう科学が未来を切り開くっていうイメージって、昔のものじゃない? っていう意識があるのかもしれない。科学は万能で、宇宙開発すら可能で、ロケットは飛んで、人類はついに火星を歩く。ゆくゆくは宇宙全土(?)を旅できるだろう。ふうん。

この「人類」って主語もよくわからない。映画のなかでマット・デイモンは、絶えず「人類」としての自分を意識していたようだ。火星でジャガイモを作るのは俺が最初だろう、穴の空いた最速のロケットに乗るのは俺が最初だろう、火星の荒野を歩く、最初の人類は俺だろう。ふうん。そういうものか。

もっと、このマット・デイモンが演じるナイスなタフガイが、どうして宇宙を目指したのか、どんな環境で育ってきて、何を思って火星に来たのか。そういう彼自身の、履歴書を超えた内情、正体がわかれば、宇宙でのサバイバルの日々には切実さが加わっただろう。彼が何のために生き抜こうとするかわかるだろう。でもそういう描写はない。わざとかもしれない。オデッセイという映画は、「人類」を素材にしているのであって、マット・デイモンが演じる主人公について描いたものではないかもしれない。

みんなが絶えず諦めず、納豆のように粘り強く、さらなる飛躍のために努力を続ければ、「人類」はもっと遠くへ行ける。次のステージへ行こう。きっとまだ見ぬ世界が君を待っている!

そんな風に頑張ってみても、「人類」がうまくいっても、ぼくはうまくいくのかな。他のひとたちは? イギリスのパディントン駅で濡れながらプラカードを首から下げている不思議なクマは、どうなる? オデッセイはそんな問いに答えないし、そんな問いなど存在しないかのように振る舞う。人類スーパー科学計画を進めるために、寂しそうに立つクマの前を素通りしていくのだ。クマと話してみれば、思いもよらないことが起きるかもしれないのに、いやもちろん、ただクマのせいで、人類スーパー科学計画が、たいした対価も得られぬまま頓挫するだけかもしれないけれども。

うん、クマを助けるのが、いいことかどうかはわからない。クマを助けるなんて不安なことだ。面倒ごとを抱え込むだけ。目標へと向かう速度は、みるみるうちに鈍っていく。だからクマは無視するに限る! でもでも、クマは消えてしまうわけではない。そこにずうっと佇んでいる。誰かがなんとかしないと、誰かがなんとかすることになるだろう。世の中の出来事の、分配原理はよくわからない。あなたに当たるかもしれない。あなたの友達に当たるかもしれない。ああ不安だ。この世はなんて不安なんだろう。不安な場所で生きるために、もっともっと、かつて掲げた目標を、強く握り直さなければ! 未来へ! 宇宙へ!

荷物をもっているせいで身体が重たいからといって、安易に荷を降ろすこともできない。軽はずみもまた慎んで然るべきだ。火星を目指すのもいいかもしれない。ぼくはなにか、極端なことを強く主張したいわけではない。

あ、そうだ、宇宙兄弟という漫画で、一次元アリと二次元アリの話をして、宇宙開発を否定するひとを説得しようとするエピソードがあった。それを思い出した。行列をまっすぐ歩く一次元アリたちには、前と後ろにしか世界がない。けれど、ひとたび障害物に出くわし、前へ進めなくなり、なくなく左右へと歩を進めれば、一次元アリは縦横無尽の散策を知る。二次元アリになる。宇宙兄弟のお兄ちゃんによれば、宇宙へ行くのは、二次元アリとしての世界を知るためなのだ。

ぼくは単に想像力のない一次元アリなのかもしれない。宇宙を目指す二次元とか三次元のアリにしかわからないことがある。やってみせないと、一次元アリには伝わらないのさ。一次元アリと二次元アリとのあいだで対話はもはや成立せず、そこには深い断絶があるかに見える。もしかすると一次元アリも、二次元アリのことを笑っているかもしれない。二次元アリにはどうせわかんないよ。あいつらって無謀なバカなんだから。

一次元アリから二次元アリへ、二次元アリから三次元四次元五次元アリへ、かつてみんなが、そんな風に、数直線のうえに乗っけて、世界を理解していた日々があった。いや、なかったかも。ただ、そんな日々があったという、物語があった。オデッセイは近未来の話だ。けれどオデッセイが依拠しているのは、すでに過ぎ去った「近未来の物語」、幼い頃に見た夢だ。

すべては胡蝶の夢かもしれず、夢も現も変わらないかも、でも、かつて見た夢を追体験できるのは、かつて夢を見たことがあるひとだけだ。ぼくは、近未来の夢を見たことがない。純粋無垢な科学への信頼を胸に抱いたこともない。オデッセイにピンとこないのは、ただそれだけの理由だと思う。そしてオデッセイに妙な迫力やエネルギーを感じたのも、ぼくにとってはリアリティのないその楼閣が、あまりに真摯に築かれていたからだ。

オデッセイは思い出に真剣に取り組んでいる。ぼくはその点、共感することも感心することも多い。ぼくは子どもを主人公にした小説を書いたことがあり、子どもの小説を書くことは、自分の子ども時代の思い出と、真剣に向き合うことに他ならない(と思ったりもする)。もちろん、独り善がりを聞かせて、相手をげんなりさせてはいけない。ぼくが癒されるために、聞き手や読者をカウンセラーに仕立ててはいけない。

でもぼくはやっぱり、自分と折り合いをつけるために小説を書いているんだという気がする。付き合わせてごめんなさい。お詫びとしてできるのは、退屈ではないように脚色し、洗練させることくらい。オデッセイは充分に洗練されている。オデッセイを見て、新たに宇宙を夢見るアリも出てくるだろう。星の王子様の作者は言った。この世はアリの塚だ。

蟻塚を大きくするより、ぼくはクマと友達になりたい。星の王子様にとってのキツネのいる人生を過ごせたらいい。火星よりロンドンのほうが遠いようでいて、直線距離では、ロンドンのほうが遠かったり、するだろうか。そのうちにGoogleマップで調べよう。

Googleマップに高さの軸が加わるのは、いつ頃になるだろう?

星の王子さま (集英社文庫)

星の王子さま (集英社文庫)



クリスマスチキン

クリスマスチキン

  • (400字詰原稿用紙換算28枚)

 

Why did the chicken cross the road?
 ――To get to the other side.
(鶏が道路を横切ったんだ、なぜだと思う?
  ――向こう側へ行くためさ。)

 

 その年のクリスマスイブは、全国的に曇りがちだった。
 閑散とした住宅街の道路には日中も日が差さず、ぴゅうと木枯らしが吹くばかり。このあたりは、商店街からもショッピングモールからも、不動産屋さんの基準で徒歩20分ほどのところで、クリスマスツリーは見当たらず、クリスマスソングも聞こえてこない。夜になれば道路に並ぶ私邸のうちの一軒が、どぎつい原色系のイルミネーションを輝かせるものの、クリスマスらしさといえばそのくらい、紅葉が終わって丸裸になりつつある各々の私邸の庭木は、もう一年を終えて、新年を迎える準備を済ませたように見える。
 道路にはもう、掃くべき落ち葉もほとんどない。この辺りに住む五十代半ばの女性はひとり、中身がいっぱいになったエコバックを片手に家路を辿りながら、毎朝、定年直前の夫を見送ったあとに家の前を掃除せずともよくなったことに、ほっとしていた。エコバックにはいちおうクリスマスっぽいメニューを作るための食材が入っている。それはたとえば、普段は使わない骨付きの鶏もも肉、ベビーリーフやミニトマト、パセリやチャービル。
「あら、奥さんいまおかえり?」
 重たいエコバックを下げた女性に親しげに話しかけたのは、近所に住むまた別の女性だ。二人は年も背格好も似ているが、エコバックをもっていないこの話しかけてきた女性のほうが、着ている服は派手である。柄物で黄色。エコバック女性は笑顔だけを返して通り過ぎようとするも、派手な女性はエコバックの中身を覗き込み、「わあ、すごい。きちんとクリスマスのメニューにするのねえ」となおも話しかけてくる。「いえ、そんなね」エコバック女性が遠慮がちにでも応じてしまったことにより、ここに井戸端会議は成立し、二人は寒空の下で、立ちっぱなしにもかかわらず、終わりなき言葉の応酬に引きずり込まれてゆく。
 会話はどのくらい続くのか? 冬至はついほんの数日前のこと、クリスマスの頃は、いつも日が短い。通常であればこの二人は、とっぷりと日が暮れて辺りが夕闇に包まれるまで、会話をやめるきっかけが掴めないはずだった。しかし二人の会話の矛先が思わぬ方向へ逸れたのは、思わぬものを見たからだ。二人は、世の中の子どもたちがいかに親の気持ちを考えていないか、ということにつき、似てはいるけれど少しずつ異なっているお互いの意見を交換し、そのお互いの意見の少しの違いに、気が付かないでいた。けれど道路に現れたものを見たときには、それに気が付かないままではいられなかった。二人はしばらくのあいだ口をつぐんだ。それをじいっと見つめた。
 そこにいたのは、一羽のニワトリだった。
 道路はアスファルトで舗装され、等間隔に電信柱が立ち並ぶ。そんな住宅街の道を、ふらりふらりと、一羽のニワトリが横切っていく。ニワトリは雌鶏だ。雌鶏だとわかるのは、鶏冠がないからだ。羽は黄金に近い茶色で、ただのニワトリでありながら、存外たたずまいは堂々としている。
「やだ、あれ、何かしら」
「ねえ? どこから来たのかしら」
 二人の女性はそれまでにしていた会話を終わらせ、道路のニワトリについて話そうとした。しかしニワトリが道路の真ん中へ行き、偶然通りかかった一台の車に轢かれそうになったとき、急ブレーキの音と共に会話はまた中断されて、二人は目を伏せた。ニワトリは間一髪のところで助かった。車はなんとなくほっとしたような動きを見せながら、面倒くさそうにバックして、ニワトリを避けて道路を進み、すぐに見えなくなっていく。ニワトリはなんてことなさそうに、マイペースに、この辺りをたむろする。
 二人の女性はなんとなく、このニワトリが何か問題を起こすような予感がしてきた。このすぐ近所に住んでいる自分たちは、このニワトリについて何か行動を起こさなくてはいけないんだろうか? でも今日はクリスマスイブで、家に帰ればそれぞれ、クリスマス料理の用意に勤しまなければならない。
 自分たちにニワトリをどうにかする時間は残されていないような気がしてくる。二人はニワトリを見なかったことに、したくなってくる。
「ね、じゃあそろそろわたし、夕飯の支度しなくちゃ」
「そうだわ。わたしもシチュー煮込もうと思ってたの。それじゃあね」
「じゃあね」
 エコバックの女性と派手な服の女性は、それぞれ自宅へと引っ込む。ニワトリは道路を先へ先へと進むことをやめて、どうしてかいまは、どちらの女性の家でもない道路沿いの家の、オープンガレージのなかへ入り込み、停めてある補助輪を外したばかりの小さな自転車の隣に、足を折りたたんで、座り込んでしまった。
 ニワトリはしばらく、そのままで座っていた。道路の交通量は少ない。それでも、行き交う人々のうちの何人かは、シャッターのない道路に面したガレージのなかで、冷たい風を避ける見目麗しいニワトリを見つけた。ニワトリは何度かスマートフォンのカメラで撮影された。たぶんTwitterFacebookInstagramVineか、とにかくそんな感じのSNSとかに、その様子を写した写真とか動画とかが、投稿されたかもしれない。だが誰もが「かわいい」「何の鳥? うずら?」「なんでここにいるんだろー?」そんなようなことを思ったり声に出したりするだけで、ニワトリに対して、何か行動を起こそうと思わなかった。ガレージにいるから、この家のニワトリに違いないと考える者もいた。
 もちろんニワトリは、この家のニワトリではない。
 そのうちに日は落ちて、夕焼け空も通り過ぎて、道路は暗く静かになる。白色の外灯が薄ぼんやりと辺りを浮かび上がらせた。空は曇ったまま、月は見えない。見えるのは少し離れた私邸に巻き付く自意識過剰の猛々しいイルミネーションだけ。
 そんななか、ニワトリはどうしてる? 昼行性のニワトリは、太陽が落ちれば眠くなってくるはずだった。しかし慣れ親しんだ寝床で自分が寝ていないことに気が付いたのか、それを不安に思ったのか、はたまた何も思わないのか、ニワトリは再び折り曲げた足をまっすぐにした。立ち上がった。コケコッコーとは叫ばなかった。クルクルクルと小さく鳴いて、聖夜に声を響かせた。クリスマスを祝っている真っ最中の、この辺りの家の居間に、ニワトリのこの鳴き声は、届きそうにない。
「へ? ニワトリ?」
 それでも、再び道路の真ん中へと躍り出たニワトリの姿を、新しくみとめた女性がいた。女性は二十代後半で、平日だから当然に仕事がある今日、いつも通り午後六時まで働き、その後、一月末に受験する予定のTOEIC試験に向けて、ここから徒歩二十分ほど離れたショッピングモールのなかのスターバックスコーヒーで、一時間半ほど勉強してきた帰り道だった。
 ニワトリ、なんだかかわいいな。
 そう思いつつ、ニワトリを見る彼女がまず連想したのは、ついさっきまでいたスターバックスコーヒーで夕飯代わりに食べたフィローネホリデーチキンサンドだ。ごめん。君の仲間を食べちゃったよ。彼女はそうやって口に出さずに頭のなかで、ニワトリに対して謝ってみる。ニワトリはクルクルと、ハトを優しくしたような声で鳴いた。妙な哀愁が漂っていた。裸で外をほっぽり歩いて、寒くないのかな。羽はあるけど。ニワトリにも夏毛とか冬毛とかあるのかな。どこのニワトリ? なんで道路の真ん中にいるんだろう? 迷いニワトリなの?
 どこかの料理屋さんで食べられそうなところを、逃げ出してきたのかな?
 このニワトリは、明るいクリスマスの食卓から逃げ出してきたのかもしれない。そう考えると、彼女はなんとなく、このニワトリに共感を覚えてしまう。どこもかしこも騒がしいよね。わたしは普通に過ごしたいだけなのに。別にクリスマスに嫌な思い出があるわけでもないんだけどさ。ただクリスマスだって理由だけでハイテンションを強要されても困っちゃう。ねえ?
 ニワトリは頭をかくかくと動かし、彼女を無視してあちこちを歩き、同意するでもなければ、否定をするでもない。人通りも車の通りもほとんどなくなった薄暗いこの道路で、彼女は不用心にもひとり、ニワトリが歩き回るのを眺めていた。一通り感慨深くなって、頭のなかでのニワトリとの会話を終わらせ、彼女は「じゃあ、元気でやれよ」と口に出して言ってみた。立ち去ろうと決めたようだ。ここからもう少し離れた、マンションの自室に向けて、彼女は歩き出した。
 この角を曲がれば、もう振り返っても、道路を歩くニワトリは見えなくなる。そんな道路の最果ての突き当たりを、彼女が曲がろうとしたとき、突き当たりに設置されるカーブミラーには強い光が映りこみ、みるみる大きくなった。彼女は曲がらずに身体を近くの塀に寄せる。車は大きなトラックで、彼女のほうに向かって曲がってきた。そしてニワトリのほうに向けて、がたんがたんと大きく車体を揺らしながら走っていった。
 あ。ニワトリ。彼女はトラックを視線で追いかけて振り向いて、そのテールランプが闇に消えるのを、生き物に不幸があったときの悲しい気配がないかを、そうしたくもないのに、見届けようとしてしまう。トラックの存在感は大きく、ニワトリがどうなったのか、ここからではよくわからない。死んでしまっていたらどうしよう。道を戻ってニワトリの様子を見に行くかどうか。彼女は迷った。
 今日は、クリスマスをさて置いて、ふつうに過ごしたかったんだ。家に帰ってから、もう少しTOEICの問題集を進めておきたい気もする。わざわざ死んでるかもしれないニワトリを、来た道を戻って見に行く必要が、そんなことする責任が、わたしにあるだろうか。ないと思う。
 ニワトリのいた道路から少し離れたところ、ちょうどどぎついハンドメイドのイルミネーションの近くにいると、彼女は弱気に、逃げ出したくなる。見ないふりをして立ち去りたくなる。
 あのニワトリだってどこかから逃げてきたんじゃない? わたしだって逃げていいはず。あんなの知らないニワトリなんだし。どこから逃げたにせよ、厄介な脱走癖のニワトリでしかない。おとなしく捕まっていればよかったんだよ。わたしはおとなしく、家に帰るよ。
 彼女はまたニワトリのほうから目を逸らし、立ち去りかけた。しかしふと、自分の考えに違和感を覚えた。
 わたしはおとなしく? ニワトリも、おとなしくしていればよかった?
 違う。
 それは違う。わたしとニワトリは全然違う。あのニワトリは勇気を出してどこかから逃げた。一歩踏み出した。わたしは、勇気を出さずに、厄介事からただ逃げようとしているだけだ。
 ニワトリが無事かどうかくらい見に行ってやらなくてどうする? わたしは見つけてしまった。少しくらい勇気を出して、立ち向かっていってやらなくてどうするんだ。
 そんなふうによしなしごとを考えて、彼女は大きなトラックが通って行った道を戻って、ニワトリの様子を見に行く。その生死を確認しに戻る。
 彼女は走らなかった。三センチほどのローヒールの靴を履いて、白く照らされる道路のうえを一歩ずつ着実に踏みしめた。周囲の家からは時折クリスマスを祝う声が漏れ聞こえた。ニワトリを見かけたところに近付いてからはより歩みを遅らせて、iPhoneの懐中電灯機能も併用しながら、慎重に辺りを探っていった。
「あ」
 いた。
 彼女はニワトリを見つけた。
 ニワトリは生きていた。こんなところにいたの? というところ、つまり道路に面して建つ家のオープンガレージのなかで、ニワトリはまた座り込んで、うとうととしていたのだった。
 よかった。
 彼女はほっと胸をなで下ろす。そしてもう覚悟を決めた彼女は、iPhoneの懐中電灯機能をオフにしながら、110番へ電話を掛けた。ニワトリがどこからきて、どこへ行こうとしているのか、それはわからない。しかし、この寒さと空腹で疲れ果てたように見えるニワトリが、このまま車に轢かれたり、野良猫や烏に襲われたり、心無い人間に虐待されたりする危険があるのを、彼女はもう放っておけなくなっていた。
「もしもし、あの、事件か事故かはよくわからないんですけど、その、道路の真ん中に、ニワトリがおりまして――」

 そしてクリスマスイブの夜は少しずつ更けてゆく。ついには110番通報までしてしまった二十代後半の女性は、ニワトリがまた道路の真ん中へ出ていかないように、知らない家のガレージの前で、警察が来るのを待っている。寒さから、一度ガレージに足を踏み入れて風から身を隠そうとしたところ、モーションセンサー付きの電気が、ガレージ全体をパッと照らした。女性は思わずまたすぐ外に出た。彼女は自分が泥棒にでもなったような、ばつの悪さを覚えた。
 なんでもいいから早く警察来い。
 彼女のそうした願いも虚しく、闇夜に不気味に立つ彼女に真っ先に声をかけたのは、警察ではなく、そのオープンガレージの家に住む親子だった。
「ええっと?」
 オープンガレージの家に住む親子――よれよれのスーツを着崩した冴えない雰囲気の父親と、小学一年生の娘――は、自分たちの家の前に立つひとの影を見るなり、とても驚いた。父親は不審者かもしれないと思い、娘は幽霊かもしれないと思った。ガレージの前の影に少しずつにじり寄り、父親は立っているのが若い女性だとわかると、幾分か安堵した。体力に自信はないけれど、これなら暴れられても、娘を抱きかかえて逃げられるかもしれない。
 しかし実際は不審者だったとしても、抱えて逃げられそうもないのだった。親子が近付いてくるのに気付いて、110番通報してガレージの前に立っていた彼女が、「あ、すいません、いまここにニワトリがいて――」と説明をしようとする途中で、親子の娘はニワトリを見つけてしまったのだ。
「わあー!! かわいい!! なにこれ! とり!」
 小学一年生の娘は叫び、駆け出してしまった。モーションセンサーが反応する。ガレージが明るくなる。娘はそのまま周囲の明るさの急激な変化に目をしばたかせるニワトリに、手を伸ばすかと思いきや、一定の距離まで近づくと途端に慎重になって、動きを止め、腰を落とした。座っているニワトリを首を傾げながら目を丸くして観察した。
「ええと、このニワトリ、迷いニワトリのようで、お宅のガレージに入り込んでしまいまして。わたしはその、ニワトリについて先ほど110番して、そしたら警察が引き取りに来てくださるそうで。で、ニワトリが道路に出ると危ないですし、ここで見張らせていただいていて」
「はああ、そうでしたか」
 そうでしたか、と父親は頷いてみせていたが、実のところ、なぜ自分の家のガレージにニワトリがいるのか、自分の家のガレージだけがこのニワトリに糞を落とされなければならないのか、状況が呑みこめたわけでもなかった。ただとりあえず、我が家の前に立ち尽くしていたこの女性に危険はなさそう、むしろひとが良さそう。そう思い、警戒は自然に解けていた。
「お父さん、カメラしたい、カメラとらなきゃ」
 娘は父親のコートの裾を引き、父親の使うXperiaをスラックスのポケットから出させる。父親がのっそりとXperiaを渡すと、娘は慣れた手付きでカメラを起動し、ニワトリに向けてシャッターを切った。「なんかうまく撮れない!」「ああ、暗いから。一回見せてごらん」父親は手を差し伸べるが、「自分でするからいい」と娘は突っぱね、タッチパネルと格闘を始めた。
「なんだかすみません、行きがかり上、お宅のガレージにニワトリを待機させてしまって」
「いえいえ別に大丈夫ですよ。でもこういうときも警察なんですね」
「なんか、遺失物としての取扱う感じで来てくれるみたいです」
「ははあ」
 通報をしたとき、警察は驚いてはいたけれど、うちの管轄じゃないよそんなのとかっていうふうに、突っぱねてくる感じでもなかったんです。なので、よくあることなのかもしれません。
 このあたりまでぺらぺら話すための言葉を用意していたが、通報した女性は、父親の薄い反応を見て、最後まで話すのを止しておいた。代わりに頭のなかで、きっとこのニワトリはどこか行きたいところに行こうとして、逃げ出してここまでやってきたのに、わたしは警察なんて呼んでしまってよかったんだろうか? 警察に連れて行かれてこの子、どうなるかもわからないのにと、改めて悩んだりもした。
 女性がそうやって真剣に悩んでいるなか、父親はもぞもぞと一度家に入り、鞄を置き、でもスーツの着替えはさておいたまま、デジタルビデオカメラをもって、また外に出てきた。娘の運動会に合わせて買ったデジタルビデオカメラだ。父親は、娘とニワトリが一緒にいる様子を撮影しておかなければ、この事件の一部始終を、妻にも見せなくては、と思い立ったのだった。オープンガレージの家に住むこの夫婦は共働きで、妻は今日、仕事で出張に出ている。そのため一家のクリスマスイベントは天皇誕生日にずらして、昨日のうちに終わらせてあった。
 娘は今日、友達の家で開かれるクリスマス会に呼ばれていて、父親は仕事を終えてから、その足で娘を迎えに行った。そして今、二人は帰って来たところだった。
「あのねえー、今日はね、クリスマス会に行ってきたんだよ」
 ガレージは明るくなり、ニワトリは立ち上がったり座ったりするようになり、娘はついさっきまではそんなニワトリの一挙手一投足に大興奮してシャッターを切りまくっていた。しかし、父親がビデオカメラを構え、父親に撮影される自分を意識しながら、ある程度素敵なニワトリの写真は撮ったし、お父さんもいい映像をとったな、そんな満足感が得られてくると、だんだんとニワトリに飽きてきた。そして、よく考えてみればニワトリの次に、なぜここにいるのか正体不明の、母親より若い大人のお姉さんに、俄然興味が向いて来た。娘は誰もが関心を抱くであろう、昨日・今日と自分が体験した素晴らしいクリスマスについての話を、お姉さんに向けて語り出したのだった。
「わたしね、昨日はケーキだったけど、今日はシュトレンだったし、あと、ポークスペアリブ食べた。チキン売ってなかったからって美佐ちゃんママ言ってた」
「へえー」
 昨日はケーキ、今日はシュトーレン? それならあとはパネトーネ、パネトーネだって食べておこうよ。女性は適当に子どもに相槌を打ちながら、昔のことを思い出していく。自分が小学生だった頃には、どんなクリスマスを過ごしていたっけ。骨付きチキンなんて、家族の誰も好きじゃなかった。お母さんはなんでかグラタンを作ってたな。それからあの炭酸の、シャンパンを模倣した瓶に入った変な飲み物、名前なんだっけ、あれ、全然おいしくなかったのに、嫌いだったのに、背伸びして飲むのは好きだったなあ。
 あの頃は、クリスマスの変な押し付けだとかなんとか、気にしてなかったな。

 そうやって親子と女性とが道路に食み出ようとするニワトリをガレージにゆるゆると引き留めているなか、車に乗った警察官の二人は、法定速度で現場へ近づいてくる。
「あ、先輩、このへんじゃないすか? あのほら、イルミネーションがやばい家の近くでしたよね」
「おまえな、そういう言い方はやめろ。ん、あそこのガレージ明るいな。たぶんあのへんだな」
 110番の通報を受けて出動してきたこの二人の警察官は、サイレンの付いていない警察の車に乗って、ニワトリを収容するためのケージを携えて、女性の知らせた住所を目安に、入り組んだ住宅街の作る迷路を攻略してやってきたのだった。
 先輩のほうは三十代前半の男性で新婚、持ち回りで断れないとはいえ、クリスマスイブに夜勤が入り、妻がいまも家で悶々と怒りを貯めているかと思うと、あまりクリスマスらしい気分ではいられなかった。後輩のほうは二十代前半の男性、大学を卒業し、まだ警察官になってから日は浅いが、体力には自信があった。実家はお世辞にも都会とはいい難いところにあり、大学に入ってから実家を出て一人暮らしするまで、クリスマスを祝うという習慣には、あまり触れてこなかった。だから今日もクリスマスイブの夜勤だが、たいして不満も感じない。むしろ今日夜勤することで年始の一日がうまく空いたので、その日に親戚の集まる実家に電話することを、今から楽しみにしている。
「どうも、えっと、通報していただいた――?」
「あ、はい。わたしです。その、ニワトリはここにいます」
「あー、こいつですか」おい、ケージもってこい。うす。後輩はきびきびとケージを抱えて車から降りてくる。「で、どっから来たとか、心当たりあります?」
「いえ、特には。でも、野生ってこともないでしょうし、たぶん誰かが飼ってたのが逃げたんじゃないかと思うんです」
「ま、そうっすよね」「それでは、捜索届が出ていないか、照会しますね。あと、このニワトリ、便宜上第一発見者ってことになるあなたが権利取得できるんですけど、どうします? 飼いませんよね? 権利放棄でいいですか?」
「あ、はい」
 書類を持って警察が来ると、事態は、手続はするすると進んでいく。通報した彼女は書類に名前や住所をかきこみながら、ここに来て、どうやら何の手応えもなく、ニワトリが警察に持ち去られてしまうらしいと感じて、寂しくなってくる。とはいえマンション住まいの彼女に、このニワトリが飼えるはずもない。ガレージ一家の娘は警察が来たのを見て、なにやらまたテンションが上がっている。父親は撮り納めとばかりに娘とニワトリのツーショットを撮っている。この親子にも任せられそうにない。通報した女性は、もうこれでやれることは全部なんだと思った。捜索届が出ていて、飼い主のもとにニワトリが戻ることを、あとは切に祈ってはみるだけ。
「んー、それらしい捜索届は出てないみたいですね」
 どこかへ電話していた先輩警察官は淡々とそう述べる。あ、おまえさ、とりあえずケージ入れちゃって。「ういっす」後輩は命じられるままに、ニワトリのもとへにじり寄る。
「こいつ、暴れますかね?」後輩は、通報した女性に向けて首を傾ぐ。
「いや、たぶん大丈夫だと思います。飛びあがらないし鳴かないし、ずっとおとなしいです」
「そっすか。お、いよ。あ、ほんとだ。こいつすごいおとなしいですね。ってか、きれいなニワトリですねー」
 そうなんです。女性はきちんと平静を保って振舞っているはずなのに、心のなかでそう強く同意している。ニワトリはケージのなかに入った。ガレージ一家の娘は「捕まっちゃったなー」「ばいばい」と物わかりよくニワトリに別れの挨拶をする。ニワトリ自身は、それまで自由だったこともあって、ケージのなかに入れられて、どことなく不安げに見えた。けど、と通報女性は思う。このニワトリはもう体力の限界だろう、食事もしたいだろうし、暖かいベッドで寝たいだろう。たとえ飼い主が見つからなくとも、そのくらいの希望は叶うといい。クリスマスなんだし。
「じゃあ、ありがとうございました」
 警察官二人は首尾よく、道路にいたニワトリをケージにしまった。あっさりと車に乗せて、ニワトリはもう、車の外から見えなくなってしまった。警察官二人は車に乗り込む。車はクリスマスイブの夜のなかを走り、ニワトリを警察署まで連れて行く。赤いテールランプは、まる裸の庭木のあいだをそりのように滑っていく。
 警察を見送り、別れの言葉もないままガレージ親子は自宅へ引っ込み、通報した女性は今度こそ後戻りせず、マンションの自室に帰った。

 警察官二人は、クルクルとニワトリの鳴き声の響く車内で、少し話をした。
「でも先輩これ、どうすんですか? ニワトリ」
「ああ、遺失物保管室で数日間保管して、いちおう近隣の小学校とかから逃げてないか確認して、そんで飼い主見つかんないなら、保健所任せだなー」
「え、まじすか」後輩は大きな声を出した。大声に驚き、後部座席のケージのなかで、ニワトリは首を縮め、鳴くのをやめた。
「じゃあ、え、それだったら、このニワトリっておれが貰ったらだめですか? たぶんうちの実家なら飼えると思うんで。こいつ色きれいだし、殺しちゃったらかわいそうっすよ」
「ああ、いいと思うよ。誰かが引き取ってくれるならそれが一番いいよ。というか、だったらそいつのこと、署にいるときもお前が面倒見ろよ」
「ええー。まだ俺のじゃないじゃないすか」
 こいつ小学生たちのアイドルだったかもしれないんでしょ? まあいっか。よし、お前に名前つけとかないとな。何にしようかな。
 当直のあいだ、クリスマスイブの夜、この後輩は雌鶏の名前をどうするか、ずっと悩んでいた。どうしよっかなあ、そうだなあ、こいつ、クリスマスイブの日に道路を歩いてたから――って、でも、なんでニワトリが、住宅街を歩いてたんだろ?
 警察署内の蛍光灯は味気なく、どことなくほの暗い。朝が近付くほどに、署内は窓の向こうの群青に照らされて、生気を取り戻してくる。
 夜が明ければ、ニワトリは、雨風の凌げる警察署の遺失物保管室で、高らかに朝を告げるだろう。クリスマスがやってくる。ただ向こう側に行くために、クリスマスがやってくる。