良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています

トイックとトイフル: 仔猫の話

    トイックは猫で、トイフルも猫だ。二匹は姉妹で、たぶん同じ母親から生まれた。身体の模様もほとんど同じだから、父親も同じかもしれない(実は猫の母親は、一度に複数の父親の子どもを産むことができるのだ。すごい)。でも正確なことはわからない。二匹は野良猫だったから。 

    野良猫だったから。
    そういうと、いまは野良猫じゃないみたいだ。けれど、どうなんだろう。トイックもトイフルも、もう野良猫ではないんだろうか。ううん。トイックとトイフル、それぞれについて、僕はキーボードを打つ手を止めて考えてしまう。
 
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* * *
 
 
    この前の週末の日曜、2016年5月29日は、第何回目かのTOEIC試験の日だった。TOEIC試験というのは英語を母語としない人々の英語力を図るためのテストで、日本ではビジネスマンや大学生のあいだで広く受験されている。試験時間は長く、二時間とか三時間とか。なんか記憶が曖昧なのは、前回僕が試験を受けたのは、もう一年以上も前のことだからだ。この日曜日にTOEIC試験を受けたのは僕ではなくて、僕の後輩の男の子だった。彼は大学院を受験するためにTOEIC試験を受けた。彼が受験する予定の大学院では、TOEIC試験の成績でもって英語力を試す、ということになっている。
 午前中の朝早くからTOEIC試験を受験して、昼過ぎになって、彼はたぶん、へとへとに疲れて、思ったよりできたなあとか、全然できなかったなあとか考えながら、大通りか脇道かあぜ道か、神の視点から見ていなかったから僕にはわからないけれど、そういう何らかの道を自転車で走り、家に帰る途中だった。
    家に帰ったら一休みして、夕方以降はアルバイトに向かう予定だ。彼はそのアルバイトをやめて、大学院に入ったあとも続けられるような研究機関でのバイトを新しく始めようと決めたところだった。いまのアルバイトは、根本的には嫌いではないけれど、給料のわりに忙しいし、直属のマネージャーが昔、彼のことを理不尽に怒ったことがあったようだ。彼は僕ほど根に持たない性格の人間だけれど、理不尽なことというのは本当に理不尽で論理を突き破って人々の世界を破壊するから、きっとそのことは、心のどこかで根を張っていると思う。でもバイトをやめるのは、そのことより、研究機関でのアルバイトの話が現実的な感じになって来たからなのだろう。
    長丁場のTOEIC試験の帰り道で、次の予定は、あまり行きたくない感じのアルバイト。
    彼の気分はたぶんそんなにルンルンしていなくて、大学院入試の心配をしながら、「バイト行きたくないなあ」とぼんやりと思っている、というような。自転車に乗りながら、過ぎていく周囲の景色はどんなだったろう? 彼の住んでいるところはそんなに都会ではない。ものすごく田舎でもない。
    でもその道は、あまり人通りのないところだったらしい。彼の視界に2匹の猫が紛れ込んだのは、どこか、あまり整備されていない道路のど真ん中であった。ぼくはそう聞いた。
    この二匹の仔猫が、後のトイックとトイフルだ。後輩の彼は道の真ん中で、手のひらサイズの仔猫がよろよろと動いているのを見た。周囲に親猫がいる気配はない。仔猫はよく見ると二匹いた。片方は俊敏に動くのに、もう片方はほとんど動く様子がなかった。
    道の真ん中で危ないなあ。
    そう思ったのか、思わないのか。他人の頭のなかがどうなのかはわからない。とりあえず、彼から聞いたところによれば、彼はすぐにその仔猫二匹を拾わなかった。一度家に帰って、それから、実家で猫を飼ったことがあって、昔、親兄弟が猫を拾ってきたことがあるとか言ってた先輩がいたことを思い出して、意見を聞こうと思った。そのいかにも頭の悪そうな先輩というのが僕だった。
    僕は、その電話を貰ったとき、何をしていたか、たぶん家のなかで、紅茶を淹れて、飲みながら何か本とか読もうとしていた。携帯電話がぶるぶると震えて、誰かからLINEのメッセージでも届いたのかと型遅れのあいほんを取り上げたら、メッセージではなくて、めったにかかってくることのないLINE通話だった。
    もしもし。とか言ったかな。どうだったかな。とにかく僕は電話に出た。猫を見かけてから猫が気にかかってしまっている後輩の子が、家に帰ってから僕に向けてかけた電話に出た。彼はけっこう取り乱していたような悩んでいたような淡々としていたような、実際声色だけでその人の感情を読み取ることができるのなんてFBI超能力捜査官くらいではないだろうか、超能力捜査官が実在するかはわからない。
 
    「いま帰り道に仔猫を見つけたんだけど拾うべきだろうか、拾うべきでないだろうか、拾ったらどうしたらいいのだろうか、うちの母親はあまり猫が好きではなくて、たぶんうちに連れて帰ってもきちんと面倒は見てあげられない、でもあのままあの動きの鈍い猫を放っておいたら、猫は死んでしまうんじゃないだろうか。母猫が見当たらなかったけれど、近くにいないものなんだろうか。どうなんだろうか」
 
    そんなような感じのことを彼は話したと思う。たぶんぼくは、「死んでしまうかもしれないし、死んでしまわないかもしれない。無理して拾う必要はないけれど、心配な気持ちはよくわかる。母猫は一般的にはけっこうべったりと仔猫の近くにいるような印象がある。でももしかすると近くにいたのかもしれない。ただ、弱っていたのなら自然界では仔猫を親が見捨ててしまうということもあるんだろう。心配なら拾って病院に連れて行ってもいいのかもしれないけど、お金もかかるし、拾わないでいても僕は拾わないひとを非難しようとは思わない」とか、そういう感じの曖昧な、毒にも薬にもならないようなことを話した気がする。
    ただ、「誰か優しいひとが拾うかもしれないよ」と気休めを言ったら、「あの道を通るひとはほとんどいない。車がたまに通るだけで、そのうちに轢かれてしまうんじゃないか」と言われたことは、よく覚えている。
    そうして、通話が切れて、彼のなかで、どんな心の動きがあったのかわからない。
    衝動的だったのかもしれないし、熟考の末の行動だったのかもしれない。バイトのために家を出る時間まで、もうあと2・3時間もなかったんじゃないか。それでもとにかく、自転車にのって帰ってきた道を、彼はまた自転車で戻った。
    仔猫を見たポイントまで戻って、まだ仔猫にいてほしいのか、いないでいてほしいのか――わからないけれど、きっと不安な気持ちでいただろう――、結局はまたそこで同じように、道路の真ん中で、無防備に座り込んでいる仔猫のきょうだいを見つけた。辺りに親猫はいなかった。彼は段ボール箱を持っていったらしい、段ボールの底にタオルを敷いていた。頼りない足取りでわちゃわちゃと動く仔猫と、ほとんど逃げもしない仔猫は、それぞれ簡単に段ボール箱のなかに収容されたようだ。
    散々戸惑って悩んで、思考停止しては慌てふためいて、決断らしい決断があったのか、なかったのか、心の動きはわからない。ただ凪いではいなくて大シケだったんじゃないかと思う。最終的には、彼は二匹の仔猫を拾って、自転車で家に持って帰った。
 
    彼は家で猫を飼えないから、里親を探すつもりだった。けれど暫定的に、元気のあるほうの仔猫をトイック、元気のないほうの仔猫をトイフルという名前にした。TOEIC試験の帰り道に見つけたからトイック。トイフルのほうは、TOEIC試験とは別の、もうひとつの国際的な英語のテストであるTOEFL試験から名前をとった。TOEFL試験はトフル試験と読むのに、なんでト「イ」フルなの、と僕が聞いたら、彼は「え、トフルって読むの、あれ」と言った。
    トイックはTOEICでいうと何点くらいなのかを聞いたら、「650点」と彼は言った。TOEIC試験は、990点満点の試験で、650点くらい採れれば、履歴書に書いてみるのもいいかもしれない。そういう試験だ。
 
 
* * *
 
 
    家に持って帰ってうちで飼うことになってよかったね。
    そんなふうにはならない。だって彼は実家住まいであり、母親は猫が苦手なのである。弱っている仔猫を二匹も持って帰った彼は、母親からものすごく怒られて、どうするつもりなのか、元の場所に戻してきなさい、とにかくうちのなかに入れませんから、そう言われて、壁にいきなりぶち当たった。「のび太の母状態」と彼は後になってから僕に話した。
    日曜日であって家には母親の他に父親も妹もいたのだけど、母の怒るなかで皆なにをどうすることもできない(母は強し)。しかももうあと少しでバイトの始まる時間で、シフトに穴を開けるわけにもいかない。どうしたらいいかわからないまま、彼は段ボール箱に猫を入れたまま、一戸建ての家の庭に、猫二匹の入った段ボールを置いて、段ボールのなかには、とりあえず水とカリカリを入れて、バイトに出掛けた。
    帰ってくるのはもう夜中になってしまう。バイトが終わってからも二匹は元気だろうか。仔猫を拾うべきじゃなかったんだろうか。バイトをドタキャンして休むべきだったんだろうか。きっといろいろ悩みながら心ここにあらず、けれど、ルーチンワークで身体化されているバイトが始まってしまえば、身体は動くし、二匹の仔猫について、現実感が薄れる瞬間もある。
    そんなかんじだったのかなあ。僕は想像して勝手なことを書いている。
    そのときの僕はといえば、「拾っちゃったけど、家に入れてくれない」と連絡を受けて、でも僕の住んでいるところもペット禁止だし、でもその弱った仔猫たちも、庭にいるよりは、ペット禁止のところでも屋根があるところに来れたほうがいいのかな、でもそれは、契約違反だしよくないことなんだろうな、というかそもそも、彼の住んでいるところと僕の住んでいるところはけっこうな距離があるわけで、簡単に受け取りに行くことも、世話するための労働力の提供を申し出ることもかなわず、しかも次の日は月曜日、お仕事だ。自分の無力感を噛み締めていた。つまり、拾うことと、拾わないことについて思いを巡らせていたのは、僕のほうだったのかもしれない。
    動物を助けようとするとなんだかよくわからないけれど世間や常識と闘わなくてはならなくなったりする。
   「そんなことよりほかにすることがあるんじゃないの、結局自分がそうしたいだけでしょ。偽善者めが。動物かわいいとかそういう気持ちを押し付けるのやめてもらえますか?」いろいろ、言い分はある。その言い分の一部分は真っ当で正しいものだと思う。けれど彼の視界にはトイックとトイフルが現れたのだったし、いま僕の実家にいる二匹のおとなの猫も、母と兄の視界に現れて、本当にみんななんの計画も用意もなく、ぼくたちの人生に加わって来たのだった。
    一目ぼれした相手や、古本屋で何となく買った本や、ふとしたときに吸い込む夜の空気のようだと思う。顔にぶつかってくる羽虫や、うっかり潰してシミになってしまったニキビや、いくつか受けて一つだけ合格した進学先・バイト先のようだと思う。
    トイックとトイフルはそうやって彼に拾われては、段ボールのなかで夜を明かす。
    バイトから帰って来た彼に、きっと上から心配そうに覗きこまれたことだろう。新型のあいほんで天気予報をみて雨の予報で、それでも家に入れさせてもらえなくてどうにか頼んで、二匹は軒下に運ばれて寒い夜に、雨に降られてびしょぬれにならずに済んだだろう。そしてでもそれがなぜなのか、いま自分たちに何が起きてるかぜんぜんわからないまま、箱のなかにいただろう。
    お母さんはどこにいったんだろうって、いつから二匹はそう思っていたのか、そんなこと思ってもいないのか、仔猫だから、どのくらい何を考えていたのか。それは後輩の彼がどう考え、何をしたのかを想像するより、ずっと難しい。
    人間が助けたほうが猫が幸せかどうかなんて、わからない。
    確かに。世間からの声に同意しながら、でも、この夜、トイックとトイフルが雨に濡れて、凍えずに済んでよかった。凍えずに済んだことを、僕はよかったのだと思う。
 
 
* * *
 
 
  「動物病院に連れて行ったほうがいいと思う」と、拾ってしまったと聞いた段階から、僕は後輩の彼に、いちおうアドバイスしていた。アドバイス。自分で連れて行かずに、「連れて行ったほうがいいよ」「そうするべき!」っていうだけなんて、そんな簡単なことはない。僕は自分を戒めなければならない(ひとが誰かの/何かの面倒を見るのが、とても面倒で大変ということは疑いない)。
    けれど月曜の朝、事態はそれほど深刻には思われなかった。彼は猫を病院に連れて行こうと思うと僕に連絡してきたし、実際に病院に行った。彼が昨夜バイト先で猫の写真を少し同僚に見せたところ、引き取りたいというひとが何人かいたという。それは明るい兆しに思えた。
    僕はあいほんに届いているメッセージを、昼休みに開ける。「健康で、怪我はなくて、ただ栄養失調だろうって。とりあえずノミを取る薬をつけてもらって、回虫を取る薬ももらった。家だと母親が本当に怒ったままだから、仔猫二匹は、小さい頃からよく知っている元大学教授のおじさんの家で、とりあえず十日間だけ置いてもらうことにした」 
    ほら、ノミも取れて、里親も見つかりそうで、屋根のある家も見つかって、万事がうまくいきそうだ。遠くの場所から見ている僕にはそう思えた。僕は、落ち着いたなら、と思って、研究報告の準備とアルバイトと仔猫問題で頭を抱えている後輩の彼に、僕も火曜日にお仕事を休んで、仔猫の様子を見に行っても良いかどうか尋ねた。手伝えることがあったらいいし、何より、誰かに貰われてゆく前に、トイックとトイフルの姿を一目見ておきたいと思った。それはエゴ以外の何物でもなく、しかし僕が仔猫一般のことを大切に思うのは、およそ何かを大切に思うのは、こうしたエゴから来る気持ちなのだという気もする。
    親切な後輩は、勉強の時間を削って、僕をその知り合いの老先生のところに案内すると言ってくれた。嬉しい気分で、僕は仔猫へのお土産に、食べものやトイレ砂はもう買ったらしいし、爪とぎとか猫じゃらしを持っていこうと思った。仕事終わりに、近所のスーパーのペット用品コーナーをめぐった。爪とぎはあって、猫じゃらしは見つからなかった。あーあ。せっかく仔猫と遊べる機会なのに残念だな。代わりに新聞紙を持って行って遊んであげようかな。僕の意識の流れはそういう浅薄なもので、綿密な描写に値しない。描写しないのも保身かもしれない。
    自分の勉強時間を切り詰めながら、頼れる人をぎりぎりまで頼って、仔猫の居場所を確保し、できるだけのことをしようとした彼の苦労を、このときの僕はまだ十分に想像できていなかった。いまもできていないかもしれないが。
 
 
* * *
 
 
    そして次の日は朝早く起きて、僕はバイト先には、急用ができたと連絡して(まあ急用ではある。確かに。仔猫の成長は早い)午前半休を申し出た。仔猫を匿ってくれている老先生の家までは、電車で1時間+バスで30分近くかかる。なかなか遠い。
    電車を降りてから後輩の彼と合流し、バスに乗った。行く途中で、彼から、老先生は病気をきっかけに小脳に少し後遺症が残ってしまっていることを知らされた。いまは呂律のまわりがあまりよくないから、話すときはよく耳を澄ませること、平衡感覚もあまりよくないから、ゆっくりと動いているけれど、老先生はそれでも自分でいろいろできるから、あまり心配しすぎないこと、それから、ちょっと変わり者だということ、などなど。
   雨は上がり、太陽が出て、蝶々がふわふわ飛んでいた。 
    ぽかぽかとした陽気だった。老先生の家は、綺麗な一軒家の立ち並ぶ住宅街の一画にある。二階建てで、老先生はそこに一人で住んでいるようだ。老先生は、確かにふらついているし呂律のまわりが悪くはあるし、それでも何でも自分のことは自分でできる、そして変わり者だった。僕は挨拶して、自己紹介する。先生は僕が大学で法学の勉強をしていたということを知ると(そう、実は僕は法学の学位をもっている)、それはそれは、と、いろいろ、時事にちなんだ話など、裁判ってなんでああなの、行政って、というような、日頃の疑問点について答えてもらえないかと、話をふってくださった。先生の感じている疑問は基本的にもっともであったし、僕が答えられるものなのか、そこは大分怪しかったけれど、でも何を話したらいいかわからないまま、だんまりで時間が過ぎる、ということもなく、とても助かった。
    仔猫二匹は段ボール箱に入っていた。
    段ボールのなかで、二匹の仔猫は眠っていた。トイックとトイフルだ。ここに来て僕は、はじめてこの仔猫二匹につけられた暫定的な名前を知った。指でつんつんしたらすぐに目を覚まして、段ボールから這い出てきて、老先生宅を探索し始める。こっちがトイック。少し突いても目を覚まさず、身体が細く、小さく、ずっと眠ったままでいる。こっちがトイフル。トイフルは前の晩にはもう少し元気があったそうなのだけど、僕が訪ねていった朝にはもう、うまく自分で体を起こすことができないようだった。食事もあまり食べられないようだ。
    やんちゃなトイックと病弱なトイフルは、まだ幼くて、手間がかかる。老先生は一人で自分のことがかなりできるといえど、他人の(というか仔猫の)ケアまでしろというのは、なかなかに酷である。一人暮らしの老先生に世話をしろというのは土台無茶な話であって、トイックとトイフルのお尻には糞がいくらか付いたままだったし、まだ猫砂で用を足すことに慣れていないせいで、あちこち歩き回るトイックがしたうんこが、変なところで乾いて落ちていたりもした(むしろこんな状態になっても預かってくれている老先生の懐の広さには敬服する)。
    僕はとりあえずトイックのお尻についている糞を拭って、落ちて乾いているうんこと、段ボール箱についているうんこを捨てた。それから眠っているトイフルを日向において、身体を温めさせる。様子を見る。
    歩き回るトイックと新聞紙を丸めたもので少し遊んでみて、膝にのせて撫でてみる。手のひらサイズのトイックは、ふわふわだ。けれどトイフルよりトイックのほうが明らかに暖かく、トイフルの低めの体温には、不安を感じる。何か食べさせなければ、そう思うものの、眠っているところに何か食べさせても、息を詰まらせるだろうか。一緒に生まれたトイックはもう、独力でドライフードをかみ砕いて食べているというのに。
    日向においてしばらくすると、トイフルは目を開けた。骨が折れているわけではないのだろうけれど、腰砕けになっている。前日の「病気ではないけど、栄養失調らしい」という報告を「じゃあ、ご飯食べさせれば治るんだ」と軽く考えていた自分に腹が立った。
    仔猫には本来、1日に5~6回、高カロリー食を与えるのが望ましい。けれど老先生にそれを頼むのは不可能であるし、後輩の彼も、研究報告が差し迫っていて、日に何度も老先生の家を訪ねるなんてできない。ケアの担い手が全く足りていない。
    トイフルを持ちあげて膝に載せてみる。しばらく膝の上に載せているうちに、元気が出てきた。僕の膝の居心地が悪いのか、トイフルは「ぎゃあ」と「みゃあ」の、中間のような声で鳴いて、身をよじらせては膝から逃げようとする。嫌がられている(気がする)のに、少し元気そうな様子に、むしろ嬉しくなってしまう。
    猫用ミルクを飲ませてみよう。
    そう思って、さすがにスポイトはないだろうから、「ストローとか、あったりしないでしょうか?」と老先生に聞いてみたところ、「ストローはないけど、スポイトはある」と言われて、え、と思った。いや、そのほうがいいのだけど。
    そして出てきたのはスポイトというより注射器のような、水分を少しずつ垂らせる類の道具だった。ミルクをあげるのにちょうど良い。猫用ミルクを吸い上げて、トイフルの口に近付けて、ミルクを飲まそうとした。でもトイフルは自分からは飲もうとしない。
    こうなればしかたない。
    僕は後輩の子に注射器を持っていてもらい、トイフルの口をぐいっと引っ張って半ば無理矢理こじ開けて、そこにミルクを流し込んだ。ごくんと喉が動き、トイフルがミルクを飲み込むのがわかる。まだ飲み込む力は残っている。トイフルはまだ飲み食いができるのだ。
    僕は、自分で立てないトイフルを見たときに、もしかするともうトイフルはだめなのだろうか、と思った。思ったけど、ミルクを飲んでくれたときには、まだ何か、こうやって口に入れてあげて、ものが呑みこめるのなら、この子は大丈夫なのかもしれない、と思った。やっぱり栄養が足りていないのではないか。十分にご飯をあげれば、トイフルはまだ元気になれるのではないか。 
    できるだけミルクを飲ませて、お尻から出てくるトイフルの糞がズボンについて拭いたりしつつ、僕らは眠たくなってきた様子のトイフルを、再び日向の暖かいところで寝かせた。
    結局、午前半休だけのつもりが、午後も休んで全休にした。トイフルに午後になってからもう一度ミルクを飲ませることにした。
    全休になるのはいいけど、ただ、問題はその後なのだ。
    午前中からお邪魔して、いつまでも老先生の家に居座り続けているわけにもいかない。午後すぎに僕らはまた同じ要領でトイフルにミルクを飲ませ、後輩の子は湯たんぽを温めてトイフルの寝床の下に敷く。先生からカイロももらって、夜中に箱が寒くならないように脇に貼っておく。
    けれどこれでもう、この日にトイフルにできることは、終わりなのだ。これでどうにか、トイフルには次の日まで命を繋げてもらわなければいけない。
    でも、つながったとしても、トイフルを回復させていくには、一日に最低4回は、高カロリーの仔猫用の離乳食のようなものを食べさせる必要がある、と思った。僕はトイフルを自分の住んでいる部屋に連れて帰ろうか悩んだけれど、部屋はペット不可だし、そもそも片道一時間半近くかかるような移動の負担を、トイフルに課してよいものか、わからなかった。後輩の彼に相談すると、彼としては、移動の負担のほうが心配で、もし看取るにしても、この辺りのほうが埋める場所もあるし責任が果たせるように感じる、と言った。
    老先生は、もうわりとトイフルのことを諦めていて、その猫はもう毛並みからしてな、まあ、なるようにしかならないから、こういうのは、という意見だった。広い広い視野で見て、それは、一理ある。一理どころか、ほぼ真理である。けれど、できる限りのことができるよう尽力することだって、「なるように」に含まれるんじゃないだろうか。僕はトイフルが膝のうえで「みゃあ」と「ぎゃあ」のあいだの声で鳴いたこと、ミルクを飲んでから日向ぼっこしているときに数回独力で寝返りを打ったことが、帰りの車のなかでも、頭を離れなかった(なんと、帰りはバスでなく、自家用車だった。老先生が運転してくれた。老先生は平衡感覚に不安があれど、座っている分には問題ないので、実はばっちり運転できるのである。すごい)。
 
 その日の夜、僕はトイフルの糞で汚れたユニクロのズボンを洗いながら、兄に電話していつといつが暇かどうかとかどういう手伝いが期待できそうとかを聞いて、母に電話して、お世話になっている先輩にも電話して、誰かが、どうにかトイフルに日に何度か食事を与えてくれるのに協力してもらえないか、聞いて回ってみた。僕が毎日行くことも考えたけれど、非正規といえ、毎日仕事をズル休みするわけにもいかない(と思うけれど、どうなのか、正直まだわからない。もしかしたら猫の命のためだったら、当然休むべきなんじゃないか? そんなふうに思う瞬間もある)。
 里親候補たちはどうなったのか。
    後輩の子にも話を聞くと、どうやら里親候補たちは、最初かわいいね、と言って、飼いたーい、というような話にとりあえずは進むのだけど、その後、各自が家で、親兄妹同居人各種に相談すると、必ず誰かに反対されて、「やっぱり無理だったー」と彼に連絡してくるのだそうだ。
    確かに、仔猫を貰って育てればその後15年から20年近く生きると考えるべきだし、できる限り、責任を持って仔猫を引き受けるべきだ。でも、僕は翻って自分の人生や、実家にいる猫たち(死にそうなところを拾われた2匹)のことを思うと、そんな覚悟を持った引き受け行為が、一体いつあったのか、そんな覚悟もなく引き取ってしまったわりに、当たり前のように生活の内側にあの猫たちが溶け込んで、もう引きはがすことなんてできなくなっている、そういう事実を不思議に思う。
 長く動物を飼ううえで必要なのは、もしかしたら覚悟や責任ではなくて、まあざっくりいえば愛情、あるいはそれに類するものなのかもしれない。もしかしたら動物を飼う以外も、継続的に何かをするのに必要なのは、そういうものなのかもしれない。
   「実は若いカップルが里親候補にまだ残ってる」と後輩の彼は話した。「でも、この二人で、本当に大丈夫なのか悩んでいる。けれど自分が老先生の家に置いているのも、決していい環境ではない。こうやって悩んでいる余裕も、実際、いまの自分にはなく、研究の報告発表のための用意がもうほんとうに間に合わない。どうしたらいいのかわからない。この数十時間の間に猫を拾ったことをすごく後悔して、もう誰でもいいからさっさとあげてしまいたいと思ったこともあった。だけど、いまはまたわからなくなっている。老先生にご飯をあげてもらうようお願いすることはどうもできそうにない。このままではトイフルは死んでしまうのではないか」
 
 電話したら、「うん、そういうことならじゃあ預かって、日に何回かご飯あげてもいいよ」そうやって二つ返事で引き受けてくれる先輩が見つかったのが、僕がトイフルと会った日の、23時を過ぎた頃だった。「すみません、とつぜんに図々しいお願いをして」と言ったら、先輩は「いやいや、いいって言われたときは、素直に頼っていいんだよ」と言った。その先輩なら老先生の家と比較的近いところに住んでいるし、過去に猫を飼っていたこともある。トイフルのことを安心して預けることができる。僕も土日には手伝いに行くし、後輩の彼も、可能な限りはトイフルの様子を見に行ってくれるだろう。
    もう明日、先輩のところに持っていこう。後輩である彼にも伝えて、話がいちおうまとまった、その矢先であった。でも、考えてみればそんな話がまとまった夜更けの23時頃にはもう、トイフルの体力は限界を通り越していたのかもしれない。もうずっと優に限界を超えて、頑張っていたんじゃないかという気がする。
 
 トイフルが亡くなって、冷たくなってしまったことを確認したのは、トイフルを拾った彼自身だ。彼が次の日の早朝に、老先生の家までトイックとトイフルの様子を見に行ったときにはもう、トイフルの身体は冷たかったようだ。僕は朝が弱いのに、珍しく六時半とかに起きていて、後輩からの知らせを、すぐ受け取ることができた。
  「冷たくなってた」
    そっか。だめだったか。
    でもトイフル、おまえは頑張った猫だ。
    そして後輩よ、きみもほんとうに忙しいなかで頑張った、ものすごい人間だ。
 僕はトイックとトイフルを拾ったと聞いたばかりのとき、もっと早い段階で、先輩に預かってもらえないか聞くことができたのでは、とか、老先生の家に訪ねたときに、そのままトイフルだけでも持ち帰ってご飯をやるべきだったのでは、とか、いろいろ、他にああすればよかったこうすればよかったという事実が、思い返せばある。あるけれど、あるな、と、それは、やれることがあったな、と思ったということで、激しく後悔する気持ちにはならなかった。いまからどう考えてみたところでトイフルはもはや死んでしまっている。後悔はパフォーマンスにしかならない気がする。もちろん考えてしまうけど。知らせを受け取ったときには、やっぱりもう限界だったか、という、看取った彼はいま平気だろうか、という、頑張ってたのに、という、そういう感じに考えた。でも大シケではなく、凪いでいた。
    どうせ死んじゃうなら、拾わなければよかっただろうか。中途半端に生かされて、却って辛い思いをしただろうか。そんなことはわからない。わからないし、トイックとトイフルと出会ってしまって、やろうと思っていた予定がうまくこなせなくなって、借りられる周囲の助けも僅かであるなか、トイックとトイフルを夜中の雨から守り、トイックとトイフルに安全に日向で身体を伸ばして寝返りを打つ幸せを授けた後輩の彼に対して、そういう物言いをするひとを、僕はあまりよく思わないと思う。きっとTOEIC試験の帰り道にトイックとトイフルを見つけたのが僕だったなら、拾わなかった、想像を都合のいい方向に働かせて、社会の常識を適当に持ち出して、母猫に見限られた二匹をそのまま二重に見限ったのではないかと思う。気付いたことに気付かないふりをしたと思う。だって社会はそうやって回っているじゃないか? でも違うかもしれない。だって現に、彼はトイックとトイフルに出会い、迷いながら二匹を持ち帰った。気付かないふりをしなかったのだから。現に社会はこうやって回っているんじゃないか?
    僕は拾えない人間だ。けれど、せめて拾う人間を誇りに思い、称えたい。責任感とか甲斐性とか、そういうものとは違う、愛情というか、目の前で起きたことを豊かな感受性で受け止め、受け止めた感覚に、誠実であろうとする、そういうひとに、あるいは日向で身体を伸ばし、目を細め、お腹がすいたらにゃあと鳴く、苦しいなかでもミルクを飲める生き物に、敬意を表して手助けしたい。そのくらいはしたい。
    トイフルも彼もよくがんばったし、偉かったのだ、僕はとにかく電話口で、LINEのメッセージで、彼にそう伝える。昨日の午前中に、昼間に、膝に乗せたトイフルが大きな声をあげたこと、お前の膝なんて嫌だと言ってくれたこと、後悔ではなく、とにかくトイフルのした一挙手一投足を思い出して泣きたくなったのは、コンタクトレンズを付けた後だった。だから涙はレンズの内側に少し溜まるだけで、僕は涙を流さないで済んだ。がんばってほしかった、でも、じゅうぶんよくがんばった、できることはあっただろうけど、できるだけのことをやった、「なるように」のうちである彼らは、いい流れを呼ぶべく、最善を尽くしたと思う。
 
 
* * *
 
 
    トイックは健康で、元気である。
    いまも老先生の広い家のなかを縦横無尽に歩き回っているか、どこか本棚に入り込んで、足を折りたたんで眠っているかもしれない。里親はまだ決まっていない。だからトイックはまだ野良猫かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 
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    トイフルは偉い猫だったが、トイックだって偉い猫だ。母猫のいなくなったところで、トイックはずっとトイフルから離れずにいた。寝ているトイフルを気付かず踏みつけたりもしていたけれど、身体の安定しないトイフルのために、枕やクッションになってやってもいた。
    トイックはトイフルと一番長く一緒にいた。
    とりあえずまた週末に、僕はトイックに会いに出かけようと思う。トイックを幸せにしてあげなければいけない気がする。
    これから全てが、どういうふうになっていくかわからないけど、世界はいろいろな感情や覚悟を巻き込んで、なるようになっていくのだろう。僕はトイックが幸せになるように、できるだけのことをしてやらないとと思っている。
    本当はすごく飼いたい、と彼からのメッセージが届く。僕もトイックは、本当は君が飼うべき猫だ、と、そう思うのだった。
 
 
※その後の話
不動産屋さんに質問したところ、ペット不可だと思っていた自分の部屋が、実は敷金1ヶ月分足せばペットオーケーになることが判明。我が家にトイックさんを迎え入れました。後輩の彼はトイックさんを見にたまに遊びにきます。トイックさんは今日も元気です。
トイックさんの優雅な日々はツイッターにて!
(@koro_hiyoshi)
 

ひよこシステム

 

  • 400字詰原稿用紙換算20枚程度
 

 

 息子のキヨシはもう寝るところだ。布団から頭だけ出して、目はとろんとしている。父親であるおれは、畳に敷かれた布団の隅に膝をついて、キヨシの頭を撫でる。布団サイドストーリーを物語る準備をする。 

  キヨシを寝かしつけるのはいつも律ちゃんの役目だが、今日は夕飯のときにキヨシから「お父さんって、寝る前におはなしをするあれ、できないんでしょ?」と挑発され、おれがやらないわけにはいかなくなった。 

「お父さんだってできるさ。お父さんが小学生のときに考えた、最強のお話をこれから聞かしてやる」

「ほんと?」

「ああ」

 何年生だったか小学生の頃に、自主学習ノートを毎日1ページ書いてくるという宿題があった。テーマは自由で、なんでもいいからなにか調べて書かなければいけない。そんなこと毎日やってられない。おれは何も調べたくなくて、てきとうに物語を書いて提出していた。 

  物語には花丸がついた。当時はおれって天才って思ったが、いま思えば、先生も物語なんてあがってきてどうしていいかよくわかんないから、とりあえず花丸をつけたんだろうな。おれはいま、そのときに作った物語の筋を思い出しているところである。

  あんまりよく覚えてない。でもキヨシの期待には応えたい。おれはたどたどしく物語る。

「主人公はひよこだ。かわいいひよこで、ひよこだけど翼を手みたいに使って、物を運んだりできる。ひよこは甘いものが好きで特にケーキが大好きだ。でもある日、ひよこがうちに帰ってくると、楽しみにしてたケーキがない。机の上に置いといたはずなのに。ひよこは慌ててきょろきょろと辺りを見回す。そうすると、窓からケーキの箱をもって出ていこうとする泥棒がいるじゃないか。おれのケーキ! 泥棒なんて怖いやつかもしれないし、危ないけど、考えなしにひよこは走って泥棒を追いかける。ケーキが好きだから。ここから、泥棒とひよこのデッドチェイス。とにかく白熱する。途中で泥棒が下水道に逃げ込んだりするし、後を追って降りた下水道には、野生化したワニがいたりする。でも最後は勇気とか智恵でひよこは絶体絶命を乗り切って、泥棒の背中めがけてひよこキック! 決まったぜ! ひよこはケーキを取り返す。そんで家に帰ってケーキの箱を開ける、そうすると、ええっと」

 なんだっけ。

「ひよこはケーキ食べれたの?」

「いや、どうだったかな。無事においしいケーキを食べれた気もするし、箱を開けるとケーキは崩れちゃってて、がっかり、あららーって話だった気もするし」

「どっち?」

「どっちだったかな? 忘れちゃったな」

「おとなって、肝心のとこを忘れる」

「そうかー? そうかもな?」

 我ながら締まりのない話だけど、だからこそなのか、睡眠導入にはぴったりのようで、いつのまにかキヨシは瞼を閉じていた。もう寝ているかもしれない。

 「おやすみ」と声をかけると、かろうじて「おやすみ」と返事があった。

 

 

 小学生になったからひとりで寝る。そう宣言したのは他でもないキヨシ本人だ。けれど、キヨシはまだ寝る前にこうやって、誰かに付いていてもらえないと眠れない。忍び足でキヨシのもとを離れ、そっと引き戸を閉めて、リビングに戻る。

「キヨシ寝たぞー」

 キヨシのお母さんでおれのお嫁さんの律ちゃんは、冷蔵庫から缶ビールを取り出して「おつかれー、ありがとー、ほいビール」と手渡してくれる。

律ちゃんは自分の分のビールも取り出し、ぷしゅっとプルタブをあげる。おれもぷしゅっ。乾杯!

  アルミ缶同士だからぶつけあってもチーンっていわない。それでも一日の終わりの一口目は、全身に染み入る。旨い!

「くー、これこれ、これがあれば、嫌なことも忘れられるよなー」

「へ? なに? なんか嫌なことあったの?」

 ビール片手に二人並んでソファに座っていた。おれの言葉に、聞き捨てならんと、律ちゃんは体育座りで90度回転して、おれのほうに向き合ってくれる。

「え、あー、うん、なんだっけ。あれ、まじで忘れちゃったな、ビール飲んだら。今日ちょっと落ち込んだ気がするんだけどな」

「ほんと?」

「あ、うん。ほら、キヨシの寝顔もかわいいしなあ」

 心配かけたくないとかでなく、おれはほんとに忘れていた。おれはけっこうほんとに忘れる。律ちゃんもそれを知っているから、それほど気に留めず、ちょっと赤くなった顔で、にやりと笑った。

「ビールが先か、嫌なことが先か」

「へ?」

「嫌なことがあるからビールを飲むのか、うまいビールを飲むために、嫌なことにも取り組もうとするのか」

「なにそれ。哲学的じゃん」

 思わず笑うと、律ちゃんも得意げに「へへへ」と笑った。

「こないだ満月だったしね」

「そっか、満月かあ」それって関係ある? と思うけど、なんかある気もするし、おれは「なら仕方ねえな」と、消えかかったビールの泡を舐める。夜はゆっくりと更けていく。

 

 次の日の朝ご飯は目玉焼きで、ハムも下敷きで、しいていうならハムエッグ。ワンプレートには千切ったレタス、トースターで焼いた食パンも載せてある。

「うさぎのエサー!」

 レタスを指でつまみながら、真新しいランドセルを傍らに置いて、キヨシが叫ぶ。

「エサって何よー」

  律ちゃんはそう言って怒るけど、キヨシには意味がわかんないだろう。小学校ではうさぎを飼っているらしく、キヨシはいま、うさぎにすごくハマっている。そうであるがゆえにキヨシのなかでは、アフリカの子どもよりうさぎのほうが大事って感じになっており、うさぎのエサというものも、さながら聖体みたいな扱い。うさぎのエサとは言ったって、「あらまあ朝からこんなすごいもの食べられてラッキー」、それくらいのニュアンスなんじゃ? 

「ねえどう思う?」律ちゃんはおれに訊いてくる。「キヨシさー、葉物の野菜をぜんぶ同じだと思ってんのよね。レタスとキャベツの区別ができてないのよ。学校でうさぎのエサにしてるのって、わたしぜったいキャベツだと思うのよね。うさぎの栄養のこと考えてもさあ……」

 キヨシと律ちゃんのやり取りに関するおれの心配は的外れで、うさぎの栄養に関する律ちゃんの講義は、右から左に抜けていく。覚えが悪く忘れっぽい。おれの頭はひよこシステム。

 

 

 でもひよこシステムは上司には不評だ。社会人ならもっと責任を持って、割り当てられた仕事をこなすべきらしい。出社して早々、おれは上司から大目玉を食らう。

  仕事を請け負ったのは営業の人たちで、実際に作業するのはおれたちエンジニア、そしたら仕事の仕組み上、できないことをやるって感じになるときもあるし、でも、できないことはどうあってもやっぱりできないし、どうしようもないこともあると思う。上司には「あー、はい、スミマセン」って言っとくけれど。

  いちおう指先の感覚がなくなって頭がぼーっとしてくるくらいはおれたちみんな頑張ったよ。ま、上司が怒るのも立場上しかたないけど。

  こんななかでやっていくために、おれは自分のひよこシステムってけっこう必要だと思う。けど、肝心なところまで忘れちゃう問題については、昨晩キヨシにも怒られたしなあ。忘れちゃいけない肝心なところと、忘れたほうがいい肝心でないところを、分けなきゃいけないのかな。でもそれって、どうやって決めるんだろう。

  働くのはお金のためで、お金は生活のためで、生活は働くためで。ビールが先か、嫌なことが先か。たまごが先か、にわとりが先か。

   あれ、ひよこは?

 そうだ、帰りにケーキを買おう。

 おれは、おれの最強のひよこの話のオチを、どうにか思い出せないものか、考え始める。そうしながら、なんかまだ怒っている上司の言葉を聞き流している。思い出しながら忘れる。双方向性ひよこシステム。ソースコードは進化している。

 

 

 でも、おれときたらまた忘れちゃって、ケーキを買っていないことに、帰りの電車のなかで気が付いた。車両の扉が閉まっていく。しまった。もう駅ビルのおいしいケーキ屋さんまで戻ることはできない(というか、戻れるけど、すごくめんどくさいのだ)。

  最寄りの駅から自宅マンションまでにあるケーキスポットは、あとはもうコンビニだけ。コンビニじゃだめだ意味ないんだよ。最強のひよこの話に出てきたケーキはコンビニケーキじゃない。

  こりゃだめだ残念また明日。頭のなかに鳴り響くゴングの音は、試合の始まりじゃなくて終わり。燃え尽きたおれは電車の空いているところに座る。朝の電車はあんなにぐちゃ混みなのに、帰りの夕方の電車では座れることも多い。これって、その分残業してる人が多いから? だとしたらなんかやべえなあ。

  一駅過ぎて、ぴんぽーんぴんぽーんと扉の開閉音が鳴る。乗り降りの少ない駅だから誰も動かず、スカで終わるかと思いきや、カツカツカツカツってヒールが折れるんじゃないかと心配になる足音で、女の人が駆け込み乗車をしてくる。

女の人は美人で知的なお姉さんで、はあ、はあ、と肩で息をして、ふー、とまた息を整えてから、おれの隣の座席に腰を下ろした。

  ラッキー! って、なにもラッキーということはないけど。

  美人のお姉さんは右手に持っていた高そうなハンドバックを膝の上に置いて、左手に持っていた紙袋を足元に置く。

  よく見るとその紙袋は、おれが買うはずだった駅ビルチェーン店のケーキ屋のものだった。ケーキだ。いいなあ。でも中身は違うのかな。紙袋だけとっといて使ってんのかな。

  美人のお姉さんはハンドバックからkindle paperwhiteを取り出し、お洒落に洋書を読みだした。その隙に未練がましく、おれは紙袋を覗く。ケーキ屋の紙袋にはきちんとケーキ屋の紙箱が入っていた。ケーキと一緒に高そうな財布も、ごろんと入っている。これは不用心。ケーキを買ったときバックにしまうのがめんどくさかったのかな。けっこうものぐさなのかな。

  おれは失礼に当たらないように、眼と首を微妙に動かすだけで紙袋を覗いていたはずだ。それなのに、ぬうっとケーキの紙箱と財布のうえに、人影が被さった。

  視線をあげると、ニット帽を被ってサングラスをかけた男が、吊革に体重を預けて、お姉さんの紙袋を覗いている。めっちゃ怪しい。

  ぴんぽーんぴんぽーん。

  また扉の開閉をめぐる間抜けな音、今度もあまり乗降はない。怪しい男が動いたのは、扉の閉まる直前だった。サッと手を伸ばして美人のお姉さんのケーキ屋の紙袋をひったくって、脱兎の如く車両から出て行く。

  反射的におれは立ち上がった。もともとない運動神経にフルスロットルいれて、男の跡を追いかけた。けれど閉まる扉にガシッと頭を挟まれて、いってええ、おれまたバカになるじゃん。あやしい男は遠のいていく。

  駆け込み乗車ならぬ駆け込み降車に注目を集めながら、扉は開く、おれは解放される。美人のお姉さんもおれが挟まれているあいだに事態に気付いて、電車を一緒に降りたみたいだけど、きちんと確認する暇もない。もうホームの階段を駆け上がっていって見えなくなりそうな怪しい男を追って、おれは走る。

  おれなんでこんな走ってんだろう? だってあいつ突然盗むもんだからびっくりして。財布入ってたし。ほらお姉さんも美人だし?

 おれも泥棒も改札はSuicaでスムーズに通過! 駅員は、大のおとな2人が走っているというイレギュラーなシチュエーションから、なにか異変を感じ取ってもいいだろうに「改札は歩いて通過してください!」と叫ぶだけ、廊下は走っちゃいけませんレベルの注意しかこっちに向けない。機動隊くらい呼んでくれ。

  改札を出てからも兎に角走る。こらー、待てーっ! とか言うべきか? そうしたら、待つわけねえだろバーカ、とか言い返してくれるのか?

  怪しい泥棒は、おれにすごく驚いてるみたいだ。そりゃそうだ。おれのもの奪ったんじゃないのにね。おれと美人のお姉さんはとても釣り合う感じに見えないし、親しげでもないし、明らかに何の関係もなさそう、あるはずがなかったもんな。うるせえやい。

 ひと気の少ない路地裏に入っていったのを追っていくと、男は曲がったところで待ち構えていて、殴りかかってきた。避けることなんてできるはずもなく、右の頬を打たれる。差し出すわけではないにしろ、おれは殴られるとか高校時代ぶりだし、茫然としてたら左の頬も殴られ、でも2回攻撃食らった時点でこいつ思ったより強くないぞ、そう確信する。よく考えたら運動不足のシステムエンジニアの足でも、追いつける相手だもんな。

  自分のが強いとわかったらなんか気が大きくなってきて、おれは果敢に殴り返した。戦いになりそうだ。でも本格的に戦いの火蓋が切って落とされるまえに、美人のお姉さんが追いついてきて、「あそこ、あの人です!」とこっちを指差した。

  制服を着たお巡りさんも、美人のお姉さんと一緒にいた。違います、お巡りさん、おれじゃありません。あ、これ、殴りあってるけど、正当防衛? だよね? あれいまおれ免許証持ってたっけ? 交通取締まりのトラウマが疼いて怯えるおれ。おれはなんでここにいるのか。繰り返されるひよこ。

 警察の人は犯人を間違えなかった。よかった。おれの暴力行為も不問になって、美人のお姉さんはすごく感謝感激してくれた。

  あの、今度お礼を、そんないい雰囲気になりかけて、連絡先とかをくれそうだったけど、こんな美人の連絡先を持ってたら、律ちゃんそれだけでキレるだろうし、「いえ、お気になさらず、当然のことです」そう言っておれは断る。ダンディでジェントル。

「あ、そうだ。でも、どうしても何かっておっしゃるなら、そのケーキとか譲っていただいてもよかったりとか……?」

 挙動不審になされた非常識なおれの提案で、ダンディ&ジェントルは台無しだ。しかし、ついさっきまで頭のなかが財布の危機でいっぱいになってたっぽい美人のお姉さんは「どうぞどうぞ」と快くケーキをくれた。

「あのこれ、箱の中身、何のケーキですか?」

「あ、ホールです。苺ショートの」

まじかよ。やったぜキヨシ! おれたちの大好物だ!

 

 

 高台にある最寄り駅から、坂を下って自宅マンションへ向かう。行きは辛いが帰りはよいよい。宵闇のなかに建ち並ぶなかで、街の明かりは、丸くぼやける。色とりどりのたまごが並ぶ。

  こういう美しい夜景のせいで日本列島は宇宙から見たとき光って見えて、それはエネルギーの無駄遣いってことらしい。

  つまりそれは、坂の上から見えるカラフルなたまごに、エネルギーが詰まってるってことだろうか。たまご・にわとりは確かに一苦労だ。毎日は切れ目なく続く。

  けっこう急な坂道で、遠くを見ていたおれは躓きそうになった。坂といえば、昔、キヨシくらいの歳の頃、ダンゴ虫をバケツ一杯に貯め、傾斜のきつい坂の上に運んでは、一気にバケツをひっくり返し、ダンゴ虫の雪崩を起こす壮絶な遊びをしてたっけ。

  なんであんなことやったんだろう。そんな理由のないことを、キヨシもやるだろうか? もしやるなら、車のあまり通らない道でやるよう伝えなければ。ダンゴ虫とキヨシの安全のために。

 

 

 おれはケーキ屋の箱を片手に、酔っぱらいによる伝説の、寿司買ってきたぞー、を再現しようとしたが、「なに!? どうしたのその顔!?」と律ちゃんにすごく驚かれて、それどころではなくなった。顔、そんなに腫れてるのかな。

  律ちゃんは薬箱を取りに廊下をUターンしていった。一緒に玄関までおれを迎えに来たキヨシも、おれの顔をみてびっくりして立ち尽くしている。

「お父さんな、ケーキのために戦ったぞ。ケーキもタダじゃないからな」

 キヨシは神妙に頷く。頷かれるのは嬉しい。働きが認められた気がする。

  キヨシはケーキの紙袋を指差した。

「ケーキ、崩れてがっかりなの? それとも美味しく食べれるの?」

 言葉で答えずに、おれは口角を上げた。どうかな、そりゃあ、開けてみないとわかんないな。けっこう走ったし戦いもあったし、ある程度の衝撃はあったと思うけど、崩れてがっかりってほどかというと、どうだろう? 

  おれは知ってて教えないとかではなく、ほんとうにわからない。結末は、開けてみるまで分からない。

 どうやら肝心なことは、思い出せずとも、復活することがあるらしい。覚えたり忘れたり、知らず知らずのうちに、おれはあの物語のなかの、最強のひよこになっている。

 

(了)

 

クリスマスチキン

クリスマスチキン

  • (400字詰原稿用紙換算28枚)

 

Why did the chicken cross the road?
 ――To get to the other side.
(鶏が道路を横切ったんだ、なぜだと思う?
  ――向こう側へ行くためさ。)

 

 その年のクリスマスイブは、全国的に曇りがちだった。
 閑散とした住宅街の道路には日中も日が差さず、ぴゅうと木枯らしが吹くばかり。このあたりは、商店街からもショッピングモールからも、不動産屋さんの基準で徒歩20分ほどの距離のところで、クリスマスツリーは見当たらない。クリスマスソングも聞こえてこない。夜になれば道路に並ぶ私邸のうちの一軒が、どぎつい原色系のイルミネーションを輝かせるものの、クリスマスらしさといえばそのくらい、紅葉が終わって丸裸になりつつある各々の私邸の庭木は、もう一年を終えて、新年を迎える準備を済ませたように見える。
 道路にはもう、掃くべき落ち葉もほとんどない。この辺りに住む五十代半ばの女性はひとり、中身がいっぱいになったエコバックを片手に家路を辿りながら、毎朝、定年直前の夫を見送ったあとに家の前を掃除せずともよくなったことに、ほっとしていた。エコバックにはいちおうクリスマスっぽいメニューを作るための食材が入っている。それはたとえば、普段は使わない骨付きの鶏もも肉、ベビーリーフやミニトマト、パセリやチャービル。
「あら、奥さんいまおかえり?」
 重たいエコバックを下げた女性に親しげに話しかけたのは、近所に住むまた別の女性だ。二人は年も背格好も似ているが、エコバックをもっていないこの話しかけてきた女性のほうが、着ている服は派手である。柄物で黄色。エコバック女性は笑顔だけを返して通り過ぎようとするも、派手な女性はエコバックの中身を覗き込み、「わあ、すごい。きちんとクリスマスのメニューにするのねえ」となおも話しかけてくる。「いえ、そんなね」エコバック女性が遠慮がちにでも応じてしまったことにより、ここに井戸端会議は成立し、二人は寒空の下で、立ちっぱなしにもかかわらず、終わりなき言葉の応酬に引きずり込まれてゆく。
 会話はどのくらい続くのか? 冬至はついほんの数日前のこと、クリスマスの頃は、いつも日が短い。通常であればこの二人は、とっぷりと日が暮れて辺りが夕闇に包まれるまで、会話をやめるきっかけが掴めないはずだった。しかし二人の会話の矛先が思わぬ方向へ逸れたのは、思わぬものを見たからだ。二人は、世の中の子どもたちがいかに親の気持ちを考えていないか、ということにつき、似てはいるけれど少しずつ異なっているお互いの意見を交換し、そのお互いの意見の少しの違いに、気が付かないでいた。けれど道路に現れたものを見たときには、それに気が付かないままではいられなかった。二人はしばらくのあいだ口をつぐんだ。それをじいっと見つめた。
 そこにいたのは、一羽のニワトリだった。
 道路はアスファルトで舗装され、等間隔に電信柱が立ち並ぶ。そんな住宅街の道を、ふらりふらりと、一羽のニワトリが横切っていく。ニワトリは雌鶏だ。雌鶏だとわかるのは、鶏冠がないからだ。羽は黄金に近い茶色で、ただのニワトリでありながら、存外たたずまいは堂々としている。
「やだ、あれ、何かしら」
「ねえ? どこから来たのかしら」
 二人の女性はそれまでにしていた会話を終わらせ、道路のニワトリについて話そうとした。しかしニワトリが道路の真ん中へ行き、偶然通りかかった一台の車に轢かれそうになったとき、急ブレーキの音と共に会話はまた中断されて、二人は目を伏せた。ニワトリは間一髪のところで助かった。車はなんとなくほっとしたような動きを見せながら、面倒くさそうにバックして、ニワトリを避けて道路を進み、すぐに見えなくなっていく。ニワトリはなんてことなさそうに、マイペースに、この辺りをたむろする。
 二人の女性はなんとなく、このニワトリが何か問題を起こすような予感がしてきた。このすぐ近所に住んでいる自分たちは、このニワトリについて何か行動を起こさなくてはいけないんだろうか? でも今日はクリスマスイブで、家に帰ればそれぞれ、クリスマス料理の用意に勤しまなければならない。
 自分たちにニワトリをどうにかする時間は残されていないような気がしてくる。二人はニワトリを見なかったことに、したくなってくる。
「ね、じゃあそろそろわたし、夕飯の支度しなくちゃ」
「そうだわ。わたしもシチュー煮込もうと思ってたの。それじゃあね」
「じゃあね」
 エコバックの女性と派手な服の女性は、それぞれ自宅へと引っ込む。ニワトリは道路を先へ先へと進むことをやめて、どうしてかいまは、どちらの女性の家でもない道路沿いの家の、オープンガレージのなかへ入り込み、停めてある補助輪を外したばかりの小さな自転車の隣に、足を折りたたんで、座り込んでしまった。
 ニワトリはしばらく、そのままで座っていた。道路の交通量は少ない。それでも、行き交う人々のうちの何人かは、シャッターのない道路に面したガレージのなかで、冷たい風を避ける見目麗しいニワトリを見つけた。ニワトリは何度かスマートフォンのカメラで撮影された。たぶんTwitterFacebookInstagramVineか、とにかくそんな感じのSNSとかに、その様子を写した写真とか動画とかが、投稿されたかもしれない。だが誰もが「かわいい」「何の鳥? うずら?」「なんでここにいるんだろー?」そんなようなことを思ったり声に出したりするだけで、ニワトリに対して、何か行動を起こそうと思わなかった。ガレージにいるから、この家のニワトリに違いないと考える者もいた。
 もちろんニワトリは、この家のニワトリではない。
 そのうちに日は落ちて、夕焼け空も通り過ぎて、道路は暗く静かになる。白色の外灯が薄ぼんやりと辺りを浮かび上がらせた。空は曇ったまま、月は見えない。見えるのは少し離れた私邸に巻き付く自意識過剰の猛々しいイルミネーションだけ。
 そんななか、ニワトリはどうしてる? 昼行性のニワトリは、太陽が落ちれば眠くなってくるはずだった。しかし慣れ親しんだ寝床で自分が寝ていないことに気が付いたのか、それを不安に思ったのか、はたまた何も思わないのか、ニワトリは再び折り曲げた足をまっすぐにした。立ち上がった。コケコッコーとは叫ばなかった。クルクルクルと小さく鳴いて、聖夜に声を響かせた。クリスマスを祝っている真っ最中の、この辺りの家の居間に、ニワトリのこの鳴き声は、届きそうにない。
「へ? ニワトリ?」
 それでも、再び道路の真ん中へと躍り出たニワトリの姿を、新しくみとめた女性がいた。女性は二十代後半で、平日だから当然に仕事がある今日、いつも通り午後六時まで働き、その後、一月末に受験する予定のTOEIC試験に向けて、ここから徒歩二十分ほど離れたショッピングモールのなかのスターバックスコーヒーで、一時間半ほど勉強してきた帰り道だった。
 ニワトリ、なんだかかわいいな。
 そう思いつつ、ニワトリを見る彼女がまず連想したのは、ついさっきまでいたスターバックスコーヒーで夕飯代わりに食べたフィローネホリデーチキンサンドだ。ごめん。君の仲間を食べちゃったよ。彼女はそうやって口に出さずに頭のなかで、ニワトリに対して謝ってみる。ニワトリはクルクルと、ハトを優しくしたような声で鳴いた。妙な哀愁が漂っていた。裸で外をほっぽり歩いて、寒くないのかな。羽はあるけど。ニワトリにも夏毛とか冬毛とかあるのかな。どこのニワトリ? なんで道路の真ん中にいるんだろう? 迷いニワトリなの?
 どこかの料理屋さんで食べられそうなところを、逃げ出してきたのかな?
 このニワトリは、明るいクリスマスの食卓から逃げ出してきたのかもしれない。そう考えると、彼女はなんとなく、このニワトリに共感を覚えてしまう。どこもかしこも騒がしいよね。わたしは普通に過ごしたいだけなのに。別にクリスマスに嫌な思い出があるわけでもないんだけどさ。ただクリスマスだって理由だけでハイテンションを強要されても困っちゃう。ねえ?
 ニワトリは頭をかくかくと動かし、彼女を無視してあちこちを歩き、同意するでもなければ、否定をするでもない。人通りも車の通りもほとんどなくなった薄暗いこの道路で、彼女は不用心にもひとり、ニワトリが歩き回るのを眺めていた。一通り感慨深くなって、頭のなかでのニワトリとの会話を終わらせ、彼女は「じゃあ、元気でやれよ」と口に出して言ってみた。立ち去ろうと決めたようだ。ここからもう少し離れた、マンションの自室に向けて、彼女は歩き出した。
 この角を曲がれば、もう振り返っても、道路を歩くニワトリは見えなくなる。そんな道路の最果ての突き当たりを、彼女が曲がろうとしたとき、突き当たりに設置されるカーブミラーには強い光が映りこみ、みるみる大きくなった。彼女は曲がらずに身体を近くの塀に寄せる。車は大きなトラックで、彼女のほうに向かって曲がってきた。そしてニワトリのほうに向けて、がたんがたんと大きく車体を揺らしながら走っていった。
 あ。ニワトリ。彼女はトラックを視線で追いかけて振り向いて、そのテールランプが闇に消えるのを、生き物に不幸があったときの悲しい気配がないかを、そうしたくもないのに、見届けようとしてしまう。トラックの存在感は大きく、ニワトリがどうなったのか、ここからではよくわからない。死んでしまっていたらどうしよう。道を戻ってニワトリの様子を見に行くかどうか。彼女は迷った。
 今日は、クリスマスをさて置いて、ふつうに過ごしたかったんだ。家に帰ってから、もう少しTOEICの問題集を進めておきたい気もする。わざわざ死んでるかもしれないニワトリを、来た道を戻って見に行く必要が、そんなことする責任が、わたしにあるだろうか。ないと思う。
 ニワトリのいた道路から少し離れたところ、ちょうどどぎついハンドメイドのイルミネーションの近くにいると、彼女は弱気に、逃げ出したくなる。見ないふりをして立ち去りたくなる。
 あのニワトリだってどこかから逃げてきたんじゃない? わたしだって逃げていいはず。あんなの知らないニワトリなんだし。どこから逃げたにせよ、厄介な脱走癖のニワトリでしかない。おとなしく捕まっていればよかったんだよ。わたしはおとなしく、家に帰るよ。
 彼女はまたニワトリのほうから目を逸らし、立ち去りかけた。しかしふと、自分の考えに違和感を覚えた。
 わたしはおとなしく? ニワトリも、おとなしくしていればよかった?
 違う。
 それは違う。わたしとニワトリは全然違う。あのニワトリは勇気を出してどこかから逃げた。一歩踏み出した。わたしは、勇気を出さずに、厄介事からただ逃げようとしているだけだ。
 ニワトリが無事かどうかくらい見に行ってやらなくてどうする? わたしは見つけてしまった。少しくらい勇気を出して、立ち向かっていってやらなくてどうするんだ。
 そんなふうによしなしごとを考えて、彼女は大きなトラックが通って行った道を戻って、ニワトリの様子を見に行く。その生死を確認しに戻る。
 彼女は走らなかった。三センチほどのローヒールの靴を履いて、白く照らされる道路のうえを一歩ずつ着実に踏みしめた。周囲の家からは時折クリスマスを祝う声が漏れ聞こえた。ニワトリを見かけたところに近付いてからはより歩みを遅らせて、iPhoneの懐中電灯機能も併用しながら、慎重に辺りを探っていった。
「あ」
 いた。
 彼女はニワトリを見つけた。
 ニワトリは生きていた。こんなところにいたの? というところ、つまり道路に面して建つ家のオープンガレージのなかで、ニワトリはまた座り込んで、うとうととしていたのだった。
 よかった。
 彼女はほっと胸をなで下ろす。そしてもう覚悟を決めた彼女は、iPhoneの懐中電灯機能をオフにしながら、110番へ電話を掛けた。ニワトリがどこからきて、どこへ行こうとしているのか、それはわからない。しかし、この寒さと空腹で疲れ果てたように見えるニワトリが、このまま車に轢かれたり、野良猫や烏に襲われたり、心無い人間に虐待されたりする危険があるのを、彼女はもう放っておけなくなっていた。
「もしもし、あの、事件か事故かはよくわからないんですけど、その、道路の真ん中に、ニワトリがおりまして――」

 そしてクリスマスイブの夜は少しずつ更けてゆく。ついには110番通報までしてしまった二十代後半の女性は、ニワトリがまた道路の真ん中へ出ていかないように、知らない家のガレージの前で、警察が来るのを待っている。寒さから、一度ガレージに足を踏み入れて風から身を隠そうとしたところ、モーションセンサー付きの電気が、ガレージ全体をパッと照らした。女性は思わずまたすぐ外に出た。彼女は自分が泥棒にでもなったような、ばつの悪さを覚えた。
 なんでもいいから早く警察来い。
 彼女のそうした願いも虚しく、闇夜に不気味に立つ彼女に真っ先に声をかけたのは、警察ではなく、そのオープンガレージの家に住む親子だった。
「ええっと?」
 オープンガレージの家に住む親子――よれよれのスーツを着崩した冴えない雰囲気の父親と、小学一年生の娘――は、自分たちの家の前に立つひとの影を見るなり、とても驚いた。父親は不審者かもしれないと思い、娘は幽霊かもしれないと思った。ガレージの前の影に少しずつにじり寄り、父親は立っているのが若い女性だとわかると、幾分か安堵した。体力に自信はないけれど、これなら暴れられても、娘を抱きかかえて逃げられるかもしれない。
 しかし実際は不審者だったとしても、抱えて逃げられそうもないのだった。親子が近付いてくるのに気付いて、110番通報してガレージの前に立っていた彼女が、「あ、すいません、いまここにニワトリがいて――」と説明をしようとする途中で、親子の娘はニワトリを見つけてしまったのだ。
「わあー!! かわいい!! なにこれ! とり!」
 小学一年生の娘は叫び、駆け出してしまった。モーションセンサーが反応する。ガレージが明るくなる。娘はそのまま周囲の明るさの急激な変化に目をしばたかせるニワトリに、手を伸ばすかと思いきや、一定の距離まで近づくと途端に慎重になって、動きを止め、腰を落とした。座っているニワトリを首を傾げながら目を丸くして観察した。
「ええと、このニワトリ、迷いニワトリのようで、お宅のガレージに入り込んでしまいまして。わたしはその、ニワトリについて先ほど110番して、そしたら警察が引き取りに来てくださるそうで。で、ニワトリが道路に出ると危ないですし、ここで見張らせていただいていて」
「はああ、そうでしたか」
 そうでしたか、と父親は頷いてみせていたが、実のところ、なぜ自分の家のガレージにニワトリがいるのか、自分の家のガレージだけがこのニワトリに糞を落とされなければならないのか、状況が呑みこめたわけでもなかった。ただとりあえず、我が家の前に立ち尽くしていたこの女性に危険はなさそう、むしろひとが良さそう。そう思い、警戒は自然に解けていた。
「お父さん、カメラしたい、カメラとらなきゃ」
 娘は父親のコートの裾を引き、父親の使うXperiaをスラックスのポケットから出させる。父親がのっそりとXperiaを渡すと、娘は慣れた手付きでカメラを起動し、ニワトリに向けてシャッターを切った。「なんかうまく撮れない!」「ああ、暗いから。一回見せてごらん」父親は手を差し伸べるが、「自分でするからいい」と娘は突っぱね、タッチパネルと格闘を始めた。
「なんだかすみません、行きがかり上、お宅のガレージにニワトリを待機させてしまって」
「いえいえ別に大丈夫ですよ。でもこういうときも警察なんですね」
「なんか、遺失物としての取扱う感じで来てくれるみたいです」
「ははあ」
 通報をしたとき、警察は驚いてはいたけれど、うちの管轄じゃないよそんなのとかっていうふうに、突っぱねてくる感じでもなかったんです。なので、よくあることなのかもしれません。
 このあたりまでぺらぺら話すための言葉を用意していたが、通報した女性は、父親の薄い反応を見て、最後まで話すのを止しておいた。代わりに頭のなかで、きっとこのニワトリはどこか行きたいところに行こうとして、逃げ出してここまでやってきたのに、わたしは警察なんて呼んでしまってよかったんだろうか? 警察に連れて行かれてこの子、どうなるかもわからないのにと、改めて悩んだりもした。
 女性がそうやって真剣に悩んでいるなか、父親はもぞもぞと一度家に入り、鞄を置き、でもスーツの着替えはさておいたまま、デジタルビデオカメラをもって、また外に出てきた。娘の運動会に合わせて買ったデジタルビデオカメラだ。父親は、娘とニワトリが一緒にいる様子を撮影しておかなければ、この事件の一部始終を、妻にも見せなくては、と思い立ったのだった。オープンガレージの家に住むこの夫婦は共働きで、妻は今日、仕事で出張に出ている。そのため一家のクリスマスイベントは天皇誕生日にずらして、昨日のうちに終わらせてあった。
 娘は今日、友達の家で開かれるクリスマス会に呼ばれていて、父親は仕事を終えてから、その足で娘を迎えに行った。そして今、二人は帰って来たところだった。
「あのねえー、今日はね、クリスマス会に行ってきたんだよ」
 ガレージは明るくなり、ニワトリは立ち上がったり座ったりするようになり、娘はついさっきまではそんなニワトリの一挙手一投足に大興奮してシャッターを切りまくっていた。しかし、父親がビデオカメラを構え、父親に撮影される自分を意識しながら、ある程度素敵なニワトリの写真は撮ったし、お父さんもいい映像をとったな、そんな満足感が得られてくると、だんだんとニワトリに飽きてきた。そして、よく考えてみればニワトリの次に、なぜここにいるのか正体不明の、母親より若い大人のお姉さんに、俄然興味が向いて来た。娘は誰もが関心を抱くであろう、昨日・今日と自分が体験した素晴らしいクリスマスについての話を、お姉さんに向けて語り出したのだった。
「わたしね、昨日はケーキだったけど、今日はシュトレンだったし、あと、ポークスペアリブ食べた。チキン売ってなかったからって美佐ちゃんママ言ってた」
「へえー」
 昨日はケーキ、今日はシュトーレン? それならあとはパネトーネ、パネトーネだって食べておこうよ。女性は適当に子どもに相槌を打ちながら、昔のことを思い出していく。自分が小学生だった頃には、どんなクリスマスを過ごしていたっけ。骨付きチキンなんて、家族の誰も好きじゃなかった。お母さんはなんでかグラタンを作ってたな。それからあの炭酸の、シャンパンを模倣した瓶に入った変な飲み物、名前なんだっけ、あれ、全然おいしくなかったのに、嫌いだったのに、背伸びして飲むのは好きだったなあ。
 あの頃は、クリスマスの変な押し付けだとかなんとか、気にしてなかったな。

 そうやって親子と女性とが道路に食み出ようとするニワトリをガレージにゆるゆると引き留めているなか、車に乗った警察官の二人は、法定速度で現場へ近づいてくる。
「あ、先輩、このへんじゃないすか? あのほら、イルミネーションがやばい家の近くでしたよね」
「おまえな、そういう言い方はやめろ。ん、あそこのガレージ明るいな。たぶんあのへんだな」
 110番の通報を受けて出動してきたこの二人の警察官は、サイレンの付いていない警察の車に乗って、ニワトリを収容するためのケージを携えて、女性の知らせた住所を目安に、入り組んだ住宅街の作る迷路を攻略してやってきたのだった。
 先輩のほうは三十代前半の男性で新婚、持ち回りで断れないとはいえ、クリスマスイブに夜勤が入り、妻がいまも家で悶々と怒りを貯めているかと思うと、あまりクリスマスらしい気分ではいられなかった。後輩のほうは二十代前半の男性、大学を卒業し、まだ警察官になってから日は浅いが、体力には自信があった。実家はお世辞にも都会とはいい難いところにあり、大学に入ってから実家を出て一人暮らしするまで、クリスマスを祝うという習慣には、あまり触れてこなかった。だから今日もクリスマスイブの夜勤だが、たいして不満も感じない。むしろ今日夜勤することで年始の一日がうまく空いたので、その日に親戚の集まる実家に電話することを、今から楽しみにしている。
「どうも、えっと、通報していただいた――?」
「あ、はい。わたしです。その、ニワトリはここにいます」
「あー、こいつですか」おい、ケージもってこい。うす。後輩はきびきびとケージを抱えて車から降りてくる。「で、どっから来たとか、心当たりあります?」
「いえ、特には。でも、野生ってこともないでしょうし、たぶん誰かが飼ってたのが逃げたんじゃないかと思うんです」
「ま、そうっすよね」「それでは、捜索届が出ていないか、照会しますね。あと、このニワトリ、便宜上第一発見者ってことになるあなたが権利取得できるんですけど、どうします? 飼いませんよね? 権利放棄でいいですか?」
「あ、はい」
 書類を持って警察が来ると、事態は、手続はするすると進んでいく。通報した彼女は書類に名前や住所をかきこみながら、ここに来て、どうやら何の手応えもなく、ニワトリが警察に持ち去られてしまうらしいと感じて、寂しくなってくる。とはいえマンション住まいの彼女に、このニワトリが飼えるはずもない。ガレージ一家の娘は警察が来たのを見て、なにやらまたテンションが上がっている。父親は撮り納めとばかりに娘とニワトリのツーショットを撮っている。この親子にも任せられそうにない。通報した女性は、もうこれでやれることは全部なんだと思った。捜索届が出ていて、飼い主のもとにニワトリが戻ることを、あとは切に祈ってはみるだけ。
「んー、それらしい捜索届は出てないみたいですね」
 どこかへ電話していた先輩警察官は淡々とそう述べる。あ、おまえさ、とりあえずケージ入れちゃって。「ういっす」後輩は命じられるままに、ニワトリのもとへにじり寄る。
「こいつ、暴れますかね?」後輩は、通報した女性に向けて首を傾ぐ。
「いや、たぶん大丈夫だと思います。飛びあがらないし鳴かないし、ずっとおとなしいです」
「そっすか。お、いよ。あ、ほんとだ。こいつすごいおとなしいですね。ってか、きれいなニワトリですねー」
 そうなんです。女性はきちんと平静を保って振舞っているはずなのに、心のなかでそう強く同意している。ニワトリはケージのなかに入った。ガレージ一家の娘は「捕まっちゃったなー」「ばいばい」と物わかりよくニワトリに別れの挨拶をする。ニワトリ自身は、それまで自由だったこともあって、ケージのなかに入れられて、どことなく不安げに見えた。けど、と通報女性は思う。このニワトリはもう体力の限界だろう、食事もしたいだろうし、暖かいベッドで寝たいだろう。たとえ飼い主が見つからなくとも、そのくらいの希望は叶うといい。クリスマスなんだし。
「じゃあ、ありがとうございました」
 警察官二人は首尾よく、道路にいたニワトリをケージにしまった。あっさりと車に乗せて、ニワトリはもう、車の外から見えなくなってしまった。警察官二人は車に乗り込む。車はクリスマスイブの夜のなかを走り、ニワトリを警察署まで連れて行く。赤いテールランプは、まる裸の庭木のあいだをそりのように滑っていく。
 警察を見送り、別れの言葉もないままガレージ親子は自宅へ引っ込み、通報した女性は今度こそ後戻りせず、マンションの自室に帰った。

 警察官二人は、クルクルとニワトリの鳴き声の響く車内で、少し話をした。
「でも先輩これ、どうすんですか? ニワトリ」
「ああ、遺失物保管室で数日間保管して、いちおう近隣の小学校とかから逃げてないか確認して、そんで飼い主見つかんないなら、保健所任せだなー」
「え、まじすか」後輩は大きな声を出した。大声に驚き、後部座席のケージのなかで、ニワトリは首を縮め、鳴くのをやめた。
「じゃあ、え、それだったら、このニワトリっておれが貰ったらだめですか? たぶんうちの実家なら飼えると思うんで。こいつ色きれいだし、殺しちゃったらかわいそうっすよ」
「ああ、いいと思うよ。誰かが引き取ってくれるならそれが一番いいよ。というか、だったらそいつのこと、署にいるときもお前が面倒見ろよ」
「ええー。まだ俺のじゃないじゃないすか」
 こいつ小学生たちのアイドルだったかもしれないんでしょ? まあいっか。よし、お前に名前つけとかないとな。何にしようかな。
 当直のあいだ、クリスマスイブの夜、この後輩は雌鶏の名前をどうするか、ずっと悩んでいた。どうしよっかなあ、そうだなあ、こいつ、クリスマスイブの日に道路を歩いてたから――って、でも、なんでニワトリが、住宅街を歩いてたんだろ?
 警察署内の蛍光灯は味気なく、どことなくほの暗い。朝が近付くほどに、署内は窓の向こうの群青に照らされて、生気を取り戻してくる。
 夜が明ければ、ニワトリは、雨風の凌げる警察署の遺失物保管室で、高らかに朝を告げるだろう。クリスマスがやってくる。ただ向こう側に行くために、クリスマスはやってくるのだ。