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良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています。あらゆるエントリーが長文。

ロンドンと火星

エッセイ
映画を見てきました。
パディントンとオデッセイです。


本物のクマと現実で暮らす
プーさんもテッドも(テッドも?)、かわいいクマはぬいぐるみだった。けれどパディントンはほんもののクマ。ペルーの山奥に住んでいた、かしこいほんもののクマ。"パディントン"は彼の英語圏での名前に過ぎず、本名は、…発音できないし、表記できない、クマのなまえ。故郷でいろいろあったパディントンは、ジュール・ベルヌが幼い頃にやろうとして失敗した(と言い伝えられるような)方法で海を渡り、文明の地・ロンドンにたどり着く。いろいろあってブラウン一家に拾われ、居候になる。

パディントンは、とても面白い映画だった。パディントンについて話そうとするとき、スポットを当てうるところはたくさんあると思う。ロンドンのひとびとの文化から見て、異質であり他者であるパディントンが、どう居場所を見つけるか、とか。でも、それは"興味深く"とも、"面白い"ところではない。"面白い"のはたぶん、ふさふさとしたパディントンの野性味溢るるかわいい動きとか、ギャップのある淡々とした声(字幕版で見ました)とか、どうやらだいぶ変わっているらしいブラウン一家のひとびとと、パディントンとの掛け合いとか、あとは数々の緊迫の瞬間、アクションシーン! ——そういうエンターテインメントなるものを、なんとなくイギリスっぽくもあるユーモアによって包んだうえでできるものだと思う。バランス感覚はほとんど完璧だ。勉強になる。

ユーモア。イギリス流の皮肉っぽいユーモアは、どっかひとを小馬鹿にするところがあったりもするイメージだけれど、パディントンでのユーモアは、あまり嫌な気持ちを抱かせない。毒気は残るし、決して単に食べやすいだけのピリ辛ではないのに、誰かを眼の前でからかって笑うような雰囲気が、あんまりない。それはブラウン一家もパディントンも、彼/彼女らはみんな、普段はそうやって世間に「からかわれて」いるひとたちで、物語があくまで彼/彼女らの視点から、——主にパディントンの視点を軸に——展開されるからかもしれない。

そうしていつのまにか、映画を見ているわれわれまでパディントンたちの側に立っている。そうすれば世間を笑うことこそできようとも、パディントンたちを笑うことはできない。ぼくはパディントンとハトの交流が好きだった。あとはケチャップ。それとも階段をのぼるとこ? お隣さんもなかなかだし、お風呂場騒動はやっぱり見事——ユーモアは基本的に思い出しきれないペースで乱発される。うまい鉄砲で数をうつので、仏頂面のあなたにも、命中すること間違いなし。

そう、だからブラウン一家の面々が物語のなかで果たす役割も大きい。物語のなかでは一家の面々の悩みがダイジェスト版で、すばらしいプレゼンテーションの形で報告され、それは解決したのかしてないのか、悪化したのか、なんだかわからないところに着地する。みんなあんまり変わってないかもしれないけれど、前よりも幸せそうになる。哀しみを抱えたパディントンは、ロンドンでたった一匹のクマで、これからもいろいろあるだろうけれど、いまは落ち着いて過ごしている。おめでとうパディントン。ロンドンの街には変なひとが多いんだって。パディントンはまだしばらく、大都会ロンドンに住むブラウン一家と暮らせそうだ。

大都会ロンドンでパディントンは暮らしていくだろう。でもパディントンは、やっぱりちょっとペルーの大自然を懐かしむこともある。パディントンはペットじゃないし、野生のクマだし、ペルーの大自然でのいい思い出もたくさんあるのだから。

パディントン」はロンドンを舞台にした映画だ。西洋文明社会を舞台にした映画だ。パディントンは人間たちの文化に感銘を受けっぱなし。人間たちは、パディントンの持ち込んだ文化に頬を引きつらせっぱなし。通りすがりのひとにいたってはパディントンの存在すらも無視してしまう。でもブラウン一家だけはパディントンを無視しなかった。パディントンの持ち込んだ世界に触れて、散々手こずって投げ出したくなりながら、でもいつのまにか、簡単には手放せないものを見つけていた。それはパディントンと出会わなければなかったものだ。もちろん、パディントンと出会ったせいで、ブラウン一家が失うものもあるのだろう(少なくともクマ一匹分の保険料はかかっているし、父親は、保険が適用されそうにない冒険心に目覚めてしまった)。

見終わったあと、ぼくはうちにもパディントンが来たらいいのにと思った。でもパディントンはとても珍しい種類のクマだし、うちには来ないだろう。ただ、ふだんは面倒で目を背けているようなことは、パディントンの代わりになるかもしれない。そういう知らないことと向き合うことは、新しい場所に繋がっているのかもしれない。

※他の重要なことに、パディントンと言語の問題がある。といっても、ここで難解な言語哲学について語るつもりはない、というか、それはぼくにはできない。ただ、作中において、パディントンが「喋れる賢いクマ」であることは、とても重要だと言っておきたい。パディントンたちは賢かったから、冒険家に「文明的」だと判断されて、殺されなかった。マーマレードを分けてもらって、ロンドンへの憧れを募らせた。パディントンは「ただのクマ」ではなくて「特別なクマ」で、知能という点で「人間に近い」クマだった。その点では、パディントンはほんもののクマなのだけど、ほんもののクマと全然違う。それはたしかにそうだ。ただ、だからといって、現実に人間がクマと触れ合えないというわけじゃないし、それはパディントンという映画の、主張するところではないと思う。パディントンは固有の生活史を刻む生きたクマだから。ぼくはヴォイテクのことを思い出す。ポーランドで従軍したほんもののクマ。ヴォイテクと交流して兵士が感じたことは、ブラウン一家よりもっと、エポックメイキングでパラダイムシフトでコペルニクス的転回、だったかもしれない(だってヴォイテクは喋れない!)。あるいはオオカミの群れのなかで暮らしていた男の話を思い出してもいいかもしれない。他の世界は恐ろしく、一度足を踏み入れたら二度と戻れない。けれどその先には、見たことないものがあるだろう、それが希望か絶望かは、わからない。

兵士になったクマ ヴォイテク

兵士になったクマ ヴォイテク

  • 作者: ビビ・デュモンタック,フィリップホプマン,Bibi Dumon Tak,Philip Hopman,長野徹
  • 出版社/メーカー: 汐文社
  • 発売日: 2015/08

狼の群れと暮らした男

狼の群れと暮らした男

  • 作者: ショーンエリス,ペニージューノ,小牟田康彦
  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2012/08/24

タフガイはどこか儚い
ペルーからロンドンに行くより、もっとすごい移動をしているのが、宇宙飛行士だ。だから宇宙飛行士が主人公のオデッセイを見れば、もっともっと、遠くに思いを馳せられるはず。そう考えて見に行った、というわけでもなかったけれど、オデッセイはすこし肩透かしな映画でもあった。

一方で、妙な高揚感や、感動もたしかにあった。火星の映像はきれいだ。何がどうとか言えないけど最近のCGってすごい。取り残された場所でひとりぼっちに暮らすマット・デイモンも、ジャガイモ育てたりとか、たいへんそう。寂しそうだし、鎮静剤飲んだりもするけれど、でもなんかマット・デイモンは強靭で、あまりへこたれない。彼には植物学と、宇宙飛行士としての知識がついてる。祖国を背負う自負がある。科学の未来も。マット・デイモンは文武両道のタフガイだ。未来は彼に託された。人類の進歩と調和。

この映画、舞台は近未来のはずだ。でも、あんまり、現実味を感じない。もうすぐ世界が映画に追いつきそうだとか、いつかはこんな暮らしがとか、ぼくはオデッセイを見て、そんな風には感じられないのだった。別に、SFとして科学的考証にたえないとかそういうことではない(そのような考証もぼくにはできない)。現実味を感じないというのは、いま、ここで、ぼくが、現実味を感じないということだ。

なんていったらいいか、こういう科学が未来を切り開くっていうイメージって、昔のものじゃない? っていう意識があるのかもしれない。科学は万能で、宇宙開発すら可能で、ロケットは飛んで、人類はついに火星を歩く。ゆくゆくは宇宙全土(?)を旅できるだろう。ふうん。

この「人類」って主語もよくわからない。映画のなかでマット・デイモンは、絶えず「人類」としての自分を意識していたようだ。火星でジャガイモを作るのは俺が最初だろう、穴の空いた最速のロケットに乗るのは俺が最初だろう、火星の荒野を歩く、最初の人類は俺だろう。ふうん。そういうものか。

もっと、このマット・デイモンが演じるナイスなタフガイが、どうして宇宙を目指したのか、どんな環境で育ってきて、何を思って火星に来たのか。そういう彼自身の、履歴書を超えた内情、正体がわかれば、宇宙でのサバイバルの日々には切実さが加わっただろう。彼が何のために生き抜こうとするかわかるだろう。でもそういう描写はない。わざとかもしれない。オデッセイという映画は、「人類」を素材にしているのであって、マット・デイモンが演じる主人公について描いたものではないかもしれない。

みんなが絶えず諦めず、納豆のように粘り強く、さらなる飛躍のために努力を続ければ、「人類」はもっと遠くへ行ける。次のステージへ行こう。きっとまだ見ぬ世界が君を待っている!

そんな風に頑張ってみても、「人類」がうまくいっても、ぼくはうまくいくのかな。他のひとたちは? イギリスのパディントン駅で濡れながらプラカードを首から下げている不思議なクマは、どうなる? オデッセイはそんな問いに答えないし、そんな問いなど存在しないかのように振る舞う。人類スーパー科学計画を進めるために、寂しそうに立つクマの前を素通りしていくのだ。クマと話してみれば、思いもよらないことが起きるかもしれないのに、いやもちろん、ただクマのせいで、人類スーパー科学計画が、たいした対価も得られぬまま頓挫するだけかもしれないけれども。

うん、クマを助けるのが、いいことかどうかはわからない。クマを助けるなんて不安なことだ。面倒ごとを抱え込むだけ。目標へと向かう速度は、みるみるうちに鈍っていく。だからクマは無視するに限る! でもでも、クマは消えてしまうわけではない。そこにずうっと佇んでいる。誰かがなんとかしないと、誰かがなんとかすることになるだろう。世の中の出来事の、分配原理はよくわからない。あなたに当たるかもしれない。あなたの友達に当たるかもしれない。ああ不安だ。この世はなんて不安なんだろう。不安な場所で生きるために、もっともっと、かつて掲げた目標を、強く握り直さなければ! 未来へ! 宇宙へ!

荷物をもっているせいで身体が重たいからといって、安易に荷を降ろすこともできない。軽はずみもまた慎んで然るべきだ。火星を目指すのもいいかもしれない。ぼくはなにか、極端なことを強く主張したいわけではない。

あ、そうだ、宇宙兄弟という漫画で、一次元アリと二次元アリの話をして、宇宙開発を否定するひとを説得しようとするエピソードがあった。それを思い出した。行列をまっすぐ歩く一次元アリたちには、前と後ろにしか世界がない。けれど、ひとたび障害物に出くわし、前へ進めなくなり、なくなく左右へと歩を進めれば、一次元アリは縦横無尽の散策を知る。二次元アリになる。宇宙兄弟のお兄ちゃんによれば、宇宙へ行くのは、二次元アリとしての世界を知るためなのだ。

ぼくは単に想像力のない一次元アリなのかもしれない。宇宙を目指す二次元とか三次元のアリにしかわからないことがある。やってみせないと、一次元アリには伝わらないのさ。一次元アリと二次元アリとのあいだで対話はもはや成立せず、そこには深い断絶があるかに見える。もしかすると一次元アリも、二次元アリのことを笑っているかもしれない。二次元アリにはどうせわかんないよ。あいつらって無謀なバカなんだから。

一次元アリから二次元アリへ、二次元アリから三次元四次元五次元アリへ、かつてみんなが、そんな風に、数直線のうえに乗っけて、世界を理解していた日々があった。いや、なかったかも。ただ、そんな日々があったという、物語があった。オデッセイは近未来の話だ。けれどオデッセイが依拠しているのは、すでに過ぎ去った「近未来の物語」、幼い頃に見た夢だ。

すべては胡蝶の夢かもしれず、夢も現も変わらないかも、でも、かつて見た夢を追体験できるのは、かつて夢を見たことがあるひとだけだ。ぼくは、近未来の夢を見たことがない。純粋無垢な科学への信頼を胸に抱いたこともない。オデッセイにピンとこないのは、ただそれだけの理由だと思う。そしてオデッセイに妙な迫力やエネルギーを感じたのも、ぼくにとってはリアリティのないその楼閣が、あまりに真摯に築かれていたからだ。

オデッセイは思い出に真剣に取り組んでいる。ぼくはその点、共感することも感心することも多い。ぼくは子どもを主人公にした小説を書いたことがあり、子どもの小説を書くことは、自分の子ども時代の思い出と、真剣に向き合うことに他ならない(と思ったりもする)。もちろん、独り善がりを聞かせて、相手をげんなりさせてはいけない。ぼくが癒されるために、聞き手や読者をカウンセラーに仕立ててはいけない。

でもぼくはやっぱり、自分と折り合いをつけるために小説を書いているんだという気がする。付き合わせてごめんなさい。お詫びとしてできるのは、退屈ではないように脚色し、洗練させることくらい。オデッセイは充分に洗練されている。オデッセイを見て、新たに宇宙を夢見るアリも出てくるだろう。星の王子様の作者は言った。この世はアリの塚だ。

蟻塚を大きくするより、ぼくはクマと友達になりたい。星の王子様にとってのキツネのいる人生を過ごせたらいい。火星よりロンドンのほうが遠いようでいて、直線距離では、ロンドンのほうが遠かったり、するだろうか。そのうちにGoogleマップで調べよう。

Googleマップに高さの軸が加わるのは、いつ頃になるだろう?

星の王子さま (集英社文庫)

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