良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています

ひよこシステム

  • 400字詰原稿用紙換算20枚程度

 息子のキヨシはもう寝るところだ。布団から頭だけ出して、目はとろんとしている。父親であるおれは、畳に敷かれた布団の隅に膝をついて、キヨシの頭を撫でる。布団サイドストーリーを物語る準備をする。 

  キヨシを寝かしつけるのはいつも律ちゃんの役目だが、今日は夕飯のときにキヨシから「お父さんって、寝る前におはなしをするあれ、できないんでしょ?」と挑発され、おれがやらないわけにはいかなくなった。 

「お父さんだってできるさ。お父さんが小学生のときに考えた、最強のお話をこれから聞かしてやる」

「ほんと?」

「ああ」

 何年生だったか小学生の頃に、自主学習ノートを毎日1ページ書いてくるという宿題があった。テーマは自由で、なんでもいいからなにか調べて書かなければいけない。そんなこと毎日やってられない。おれは何も調べたくなくて、てきとうに物語を書いて提出していた。 

  物語には花丸がついた。当時はおれって天才って思ったが、いま思えば、先生も物語なんてあがってきてどうしていいかよくわかんないから、とりあえず花丸をつけたんだろうな。おれはいま、そのときに作った物語の筋を思い出しているところである。

  あんまりよく覚えてない。でもキヨシの期待には応えたい。おれはたどたどしく物語る。

「主人公はひよこだ。かわいいひよこで、ひよこだけど翼を手みたいに使って、物を運んだりできる。ひよこは甘いものが好きで特にケーキが大好きだ。でもある日、ひよこがうちに帰ってくると、楽しみにしてたケーキがない。机の上に置いといたはずなのに。ひよこは慌ててきょろきょろと辺りを見回す。そうすると、窓からケーキの箱をもって出ていこうとする泥棒がいるじゃないか。おれのケーキ! 泥棒なんて怖いやつかもしれないし、危ないけど、考えなしにひよこは走って泥棒を追いかける。ケーキが好きだから。ここから、泥棒とひよこのデッドチェイス。とにかく白熱する。途中で泥棒が下水道に逃げ込んだりするし、後を追って降りた下水道には、野生化したワニがいたりする。でも最後は勇気とか智恵でひよこは絶体絶命を乗り切って、泥棒の背中めがけてひよこキック! 決まったぜ! ひよこはケーキを取り返しす。そんで家に帰ってケーキの箱を開ける、そうすると、ええっと」

 なんだっけ。

「ひよこはケーキ食べれたの?」

「いや、どうだったかな。無事においしいケーキを食べれた気もするし、箱を開けるとケーキは崩れちゃってて、がっかり、あららーって話だった気もするし」

「どっち?」

「どっちだったかな? 忘れちゃったな」

「おとなって、肝心のとこを忘れる」

「そうかー? そうかもな?」

 我ながら締まりのない話だけど、だからこそなのか、睡眠導入にはぴったりのようで、いつのまにかキヨシは瞼を閉じていた。もう寝ているかもしれない。

 「おやすみ」と声をかけると、かろうじて「おやすみ」と返事があった。


 小学生になったからひとりで寝る。そう宣言したのは他でもないキヨシ本人だ。けれど、キヨシはまだ寝る前にこうやって、誰かに付いていてもらえないと眠れない。忍び足でキヨシのもとを離れ、そっと引き戸を閉めて、リビングに戻る。

「キヨシ寝たぞー」

 キヨシのお母さんでおれのお嫁さんの律ちゃんは、冷蔵庫から缶ビールを取り出して「おつかれー、ありがとー、ほいビール」と手渡してくれる。

律ちゃんは自分の分のビールも取り出し、ぷしゅっとプルタブをあげる。おれもぷしゅっ。乾杯!

  アルミ缶同士だからぶつけあってもチーンっていわない。それでも一日の終わりの一口目は、全身に染み入る。旨い!

「くー、これこれ、これがあれば、嫌なことも忘れられるよなー」

「へ? なに? なんか嫌なことあったの?」

 ビール片手に二人並んでソファに座っていた。おれの言葉に、聞き捨てならんと、律ちゃんは体育座りで90度回転して、おれのほうに向き合ってくれる。

「え、あー、うん、なんだっけ。あれ、まじで忘れちゃったな、ビール飲んだら。今日ちょっと落ち込んだ気がするんだけどな」

「ほんと?」

「あ、うん。ほら、キヨシの寝顔もかわいいしなあ」

 心配かけたくないとかでなく、おれはほんとに忘れていた。おれはけっこうほんとに忘れる。律ちゃんもそれを知っているから、それほど気に留めず、ちょっと赤くなった顔で、にやりと笑った。

「ビールが先か、嫌なことが先か」

「へ?」

「嫌なことがあるからビールを飲むのか、うまいビールを飲むために、嫌なことにも取り組もうとするのか」

「なにそれ。哲学的じゃん」

 思わず笑うと、律ちゃんも得意げに「へへへ」と笑った。

「こないだ満月だったしね」

「そっか、満月かあ」それって関係ある? と思うけど、なんかある気もするし、おれは「なら仕方ねえな」と、消えかかったビールの泡を舐める。夜はゆっくりと更けていく。

 次の日の朝ご飯は目玉焼きで、ハムも下敷きで、しいていうならハムエッグ。ワンプレートには千切ったレタス、トースターで焼いた食パンも載せてある。

「うさぎのエサー!」

 レタスを指でつまみながら、真新しいランドセルを傍らに置いて、キヨシが叫ぶ。

「エサって何よー」

  律ちゃんはそう言って怒るけど、キヨシには意味がわかんないだろう。小学校ではうさぎを飼っているらしく、キヨシはいま、うさぎにすごくハマっている。そうであるがゆえにキヨシのなかでは、アフリカの子どもよりうさぎのほうが大事って感じになっており、うさぎのエサというものも、さながら聖体みたいな扱い。うさぎのエサとは言ったって、「あらまあ朝からこんなすごいもの食べられてラッキー」、それくらいのニュアンスなんじゃ? 

「ねえどう思う?」律ちゃんはおれに訊いてくる。「キヨシさー、葉物の野菜をぜんぶ同じだと思ってんのよね。レタスとキャベツの区別ができてないのよ。学校でうさぎのエサにしてるのって、わたしぜったいキャベツだと思うのよね。うさぎの栄養のこと考えてもさあ……」

 キヨシと律ちゃんのやり取りに関するおれの心配は的外れで、うさぎの栄養に関する律ちゃんの講義は、右から左に抜けていく。覚えが悪く忘れっぽい。おれの頭はひよこシステム。



 でもひよこシステムは上司には不評だ。社会人ならもっと責任を持って、割り当てられた仕事をこなすべきらしい。出社して早々、おれは上司から大目玉を食らう。

  仕事を請け負ったのは営業の人たちで、実際に作業するのはおれたちエンジニア、そしたら仕事の仕組み上、できないことをやるって感じになるときもあるし、でも、できないことはどうあってもやっぱりできないし、どうしようもないこともあると思う。上司には「あー、はい、スミマセン」って言っとくけれど。

  いちおう指先の感覚がなくなって頭がぼーっとしてくるくらいはおれたちみんな頑張ったよ。ま、上司が怒るのも立場上しかたないけど。

  こんななかでやっていくために、おれは自分のひよこシステムってけっこう必要だと思う。けど、肝心なところまで忘れちゃう問題については、昨晩キヨシにも怒られたしなあ。忘れちゃいけない肝心なところと、忘れたほうがいい肝心でないところを、分けなきゃいけないのかな。でもそれって、どうやって決めるんだろう。

  働くのはお金のためで、お金は生活のためで、生活は働くためで。ビールが先か、嫌なことが先か。たまごが先か、にわとりが先か。

   あれ、ひよこは?

 そうだ、帰りにケーキを買おう。

 おれは、おれの最強のひよこの話のオチを、どうにか思い出せないものか、考え始める。そうしながら、なんかまだ怒っている上司の言葉を聞き流している。思い出しながら忘れる。双方向性ひよこシステム。ソースコードは進化している。


 でも、おれときたらまた忘れちゃって、ケーキを買っていないことに、帰りの電車のなかで気が付いた。車両の扉が閉まっていく。しまった。もう駅ビルのおいしいケーキ屋さんまで戻ることはできない(というか、戻れるけど、すごくめんどくさいのだ)。

  最寄りの駅から自宅マンションまでにあるケーキスポットは、あとはもうコンビニだけ。コンビニじゃだめだ意味ないんだよ。最強のひよこの話に出てきたケーキはコンビニケーキじゃない。

  こりゃだめだ残念また明日。頭のなかに鳴り響くゴングの音は、試合の始まりじゃなくて終わり。燃え尽きたおれは電車の空いているところに座る。朝の電車はあんなにぐちゃ混みなのに、帰りの夕方の電車では座れることも多い。これって、その分残業してる人が多いから? だとしたらなんかやべえなあ。

  一駅過ぎて、ぴんぽーんぴんぽーんと扉の開閉音が鳴る。乗り降りの少ない駅だから誰も動かず、スカで終わるかと思いきや、カツカツカツカツってヒールが折れるんじゃないかと心配になる足音で、女の人が駆け込み乗車をしてくる。

女の人は美人で知的なお姉さんで、はあ、はあ、と肩で息をして、ふー、とまた息を整えてから、おれの隣の座席に腰を下ろした。

  ラッキー! って、なにもラッキーということはないけど。

  美人のお姉さんは右手に持っていた高そうなハンドバックを膝の上に置いて、左手に持っていた紙袋を足元に置く。

  よく見るとその紙袋は、おれが買うはずだった駅ビルチェーン店のケーキ屋のものだった。ケーキだ。いいなあ。でも中身は違うのかな。紙袋だけとっといて使ってんのかな。

  美人のお姉さんはハンドバックからkindle paperwhiteを取り出し、お洒落に洋書を読みだした。その隙に未練がましく、おれは紙袋を覗く。ケーキ屋の紙袋にはきちんとケーキ屋の紙箱が入っていた。ケーキと一緒に高そうな財布も、ごろんと入っている。これは不用心。ケーキを買ったときバックにしまうのがめんどくさかったのかな。けっこうものぐさなのかな。

  おれは失礼に当たらないように、眼と首を微妙に動かすだけで紙袋を覗いていたはずだ。それなのに、ぬうっとケーキの紙箱と財布のうえに、人影が被さった。

  視線をあげると、ニット帽を被ってサングラスをかけた男が、吊革に体重を預けて、お姉さんの紙袋を覗いている。めっちゃ怪しい。

  ぴんぽーんぴんぽーん。

  また扉の開閉をめぐる間抜けな音、今度もあまり乗降はない。怪しい男が動いたのは、扉の閉まる直前だった。サッと手を伸ばして美人のお姉さんのケーキ屋の紙袋をひったくって、脱兎の如く車両から出て行く。

  反射的におれは立ち上がった。もともとない運動神経にフルスロットルいれて、男の跡を追いかけた。けれど閉まる扉にガシッと頭を挟まれて、いってええ、おれまたバカになるじゃん。あやしい男は遠のいていく。

  駆け込み乗車ならぬ駆け込み降車に注目を集めながら、扉は開く、おれは解放される。美人のお姉さんもおれが挟まれているあいだに事態に気付いて、電車を一緒に降りたみたいだけど、きちんと確認する暇もない。もうホームの階段を駆け上がっていって見えなくなりそうな怪しい男を追って、おれは走る。

  おれなんでこんな走ってんだろう? だってあいつ突然盗むもんだからびっくりして。財布入ってたし。ほらお姉さんも美人だし?

 おれも泥棒も改札はSuicaでスムーズに通過! 駅員は、大のおとな2人が走っているというイレギュラーなシチュエーションから、なにか異変を感じ取ってもいいだろうに「改札は歩いて通過してください!」と叫ぶだけ、廊下は走っちゃいけませんレベルの注意しかこっちに向けない。機動隊くらい呼んでくれ。

  改札を出てからも兎に角走る。こらー、待てーっ! とか言うべきか? そうしたら、待つわけねえだろバーカ、とか言い返してくれるのか?

  怪しい泥棒は、おれにすごく驚いてるみたいだ。そりゃそうだ。おれのもの奪ったんじゃないのにね。おれと美人のお姉さんはとても釣り合う感じに見えないし、親しげでもないし、明らかに何の関係もなさそう、あるはずがなかったもんな。うるせえやい。

 ひと気の少ない路地裏に入っていったのを追っていくと、男は曲がったところで待ち構えていて、殴りかかってきた。避けることなんてできるはずもなく、右の頬を打たれる。差し出すわけではないにしろ、おれは殴られるとか高校時代ぶりだし、茫然としてたら左の頬も殴られ、でも2回攻撃食らった時点でこいつ思ったより強くないぞ、そう確信する。よく考えたら運動不足のシステムエンジニアの足でも、追いつける相手だもんな。

  自分のが強いとわかったらなんか気が大きくなってきて、おれは果敢に殴り返した。戦いになりそうだ。でも本格的に戦いの火蓋が切って落とされるまえに、美人のお姉さんが追いついてきて、「あそこ、あの人です!」とこっちを指差した。

  制服を着たお巡りさんも、美人のお姉さんと一緒にいた。違います、お巡りさん、おれじゃありません。あ、これ、殴りあってるけど、正当防衛? だよね? あれいまおれ免許証持ってたっけ? 交通取締まりのトラウマが疼いて怯えるおれ。おれはなんでここにいるのか。繰り返されるひよこ。

 警察の人は犯人を間違えなかった。よかった。おれの暴力行為も不問になって、美人のお姉さんはすごく感謝感激してくれた。

  あの、今度お礼を、そんないい雰囲気になりかけて、連絡先とかをくれそうだったけど、こんな美人の連絡先を持ってたら、律ちゃんそれだけでキレるだろうし、「いえ、お気になさらず、当然のことです」そう言っておれは断る。ダンディでジェントル。

「あ、そうだ。でも、どうしても何かっておっしゃるなら、そのケーキとか譲っていただいてもよかったりとか……?」

 挙動不審になされた非常識なおれの提案で、ダンディ&ジェントルは台無しだ。しかし、ついさっきまで頭のなかが財布の危機でいっぱいになってたっぽい美人のお姉さんは「どうぞどうぞ」と快くケーキをくれた。

「あのこれ、箱の中身、何のケーキですか?」

「あ、ホールです。苺ショートの」

まじかよ。やったぜキヨシ! おれたちの大好物だ!


 高台にある最寄り駅から、坂を下って自宅マンションへ向かう。行きは辛いが帰りはよいよい。宵闇のなかに建ち並ぶなかで、街の明かりは、丸くぼやける。色とりどりのたまごが並ぶ。

  こういう美しい夜景のせいで日本列島は宇宙から見たとき光って見えて、それはエネルギーの無駄遣いってことらしい。

  つまりそれは、坂の上から見えるカラフルなたまごに、エネルギーが詰まってるってことだろうか。たまご・にわとりは確かに一苦労だ。毎日は切れ目なく続く。

  けっこう急な坂道で、遠くを見ていたおれは躓きそうになった。坂といえば、昔、キヨシくらいの歳の頃、ダンゴ虫をバケツ一杯に貯め、傾斜のきつい坂の上に運んでは、一気にバケツをひっくり返し、ダンゴ虫の雪崩を起こす壮絶な遊びをしてたっけ。

  なんであんなことやったんだろう。そんな理由のないことを、キヨシもやるだろうか? もしやるなら、車のあまり通らない道でやるよう伝えなければ。ダンゴ虫とキヨシの安全のために。


 おれはケーキ屋の箱を片手に、酔っぱらいによる伝説の、寿司買ってきたぞー、を再現しようとしたが、「なに!? どうしたのその顔!?」と律ちゃんにすごく驚かれて、それどころではなくなった。顔、そんなに腫れてるのかな。

  律ちゃんは薬箱を取りに廊下をUターンしていった。一緒に玄関までおれを迎えに来たキヨシも、おれの顔をみてびっくりして立ち尽くしている。

「お父さんな、ケーキのために戦ったぞ。ケーキもタダじゃないからな」

 キヨシは神妙に頷く。頷かれるのは嬉しい。働きが認められた気がする。

  キヨシはケーキの紙袋を指差した。

「ケーキ、崩れてがっかりなの? それとも美味しく食べれるの?」

 言葉で答えずに、おれは口角を上げた。どうかな、そりゃあ、開けてみないとわかんないな。けっこう走ったし戦いもあったし、ある程度の衝撃はあったと思うけど、崩れてがっかりってほどかというと、どうだろう? 

  おれは知ってて教えないとかではなく、ほんとうにわからない。結末は、開けてみるまで分からない。

 どうやら肝心なことは、思い出せずとも、復活することがあるらしい。覚えたり忘れたり、知らず知らずのうちに、おれはあの物語のなかの、最強のひよこになっている。

(了)