良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています

とにかく意味はない、意味のことはもう諦めろ: トランプ、アノミー、星野源

 あけましておめでとうございます、そう言ってよいのは1月何日まででしょうか。おとなになればわかるようになると思っていたことがわかるようにならないまま、身体ばかりが大人らしくなってしまいました。僕は平成元年生まれでして、平成の世が平成三〇年で終わりそうだというお話はなんとなく他人事ではないような気がしております。え? 別に元年生まれでなくとも他人事ではない? いやそうですね。ある意味では日本人ならおよそ他人事ではないと言えるでしょうし、またある意味では、さして日々の生活に影響もなく、他人事と言えるかもしれません。さて、煙に巻いたところで豆知識。実は平成元年生まれは、平成三〇年に三〇歳になりません!(当たり前)
 それにしても日本人としてのアイデンティティとかアメリカ人としてのアイデンティティとかが殊更に話題になる時代になってまいりました。気付いたらって感じですけど、いつからでしょう? いやはや細かい歴史や思想の整理は賢い人に任せましょう。とにかく、冷戦終結後、ベルリンの壁の崩壊と共に生まれた身としては、戦後日本としての葛藤のようなものも、はたまたマルクス主義に熱中して階級的意識を内面化する経験ももないまま、ここまで来てしまったという感じです。ここまでってどこまで?
 いろいろ時の流れについて考えていると、大きな時代が続くことと、自分が年齢を重ねていくこととがわけて捉えらえるものとわかります。
 例えば星野源は「時よ」という歌のなかで二つの時の流れをうまく表現しています。

時よ 今を乗せて
続くよ 訳もなく

 うまい具合に、「今」(自分の時間)と「時」(自分の外で流れる客観的な時間)とを分けておられます。なるほど、直観的にスッと入る漢字一文字が当ててある。すごい!
 でもなんかむしろ気になるのは「訳もなく」の部分で、この歌、なんでか時間が過ぎるのには「意味がない」ということを恐ろしいほど連発するのです。冒頭の歌詞からして「時よ 僕ら乗せて 続いてく 意味もなく」です。もちろん「赤子の声が 柵を手にしてそこに立ち上がり その瞳から生まれた恋が すべてを繋ぎ 今も ここに いるの」等々、個人の時間の始まりや生物の連鎖、心に残る思い出の景色のようなものに情緒的意味を見出すような箇所もあります。ありますが、その後も何度もサビで「訳もなく」「意味もなく」とパワーワードを繰り返しますので、やっぱりそこにも大きな意味があるわけではないのです。意味はないけど我々は生まれていろいろ考えながら感じながら続くのです。
 そして最後は「時よ いつか降りる その時には バイバイ」です。明らかに死んでいるぞ。どうやらこの歌、「今」から始まって「昔」を振り返り、さらに将来の「死」を見据えて終わる、という、なかなか思い切った構成です。すごくテンポが良くて明るいのに、死を見つめている、というギャップにたいへん混乱します。そしてこの混乱、何かとても大切なことのような気がします。
 というわけで、さてさて、実は本日、星野源の「時」が入っているアルバム『YELLOW DANCER』を購入いたしました(あ、でも、これを書いているうちに昨日のことになりました。そしてデジタル購入です。物理円盤じゃなくてごめんなさい……)。昨年は『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマで恋ダンスが流行って、星野源は年末には紅白歌合戦にも出場してたし、とにかく今をときめいています。流行の最先端!
 最近テレビドラマをほとんど見れていなくて、逃げ恥も例外なく見てなくて(でもなんだか面白そうだし見たいのですが、いまなお見れておりません。映像作品といえば最近はなぜか兄から勧められた機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを専ら楽しんでいます。オルフェンズ面白いよ、みんな見よう! ……みんなって誰だろ?…)、流行から取り残され、僕は星野源のミュージックにあまり触れることなく生きていました。昔スマスマでスマップと一緒にSUNを歌うのを聞いたことあるくらいで、あとは全然知らなかった。そのときは「へえ」っていう感じだったし。
 しかし本日星野源のアルバムを買ったということで、そんな日々にも変化があったということです。つまり年末に実家に帰り、近所の安売りスーパーで買った惣菜の海老天をのっけた年越しそば食べた後、マツコ・デラックスさんとタモリさんが一向に会場にたどり着かない紅白歌合戦(なんで?)をだらだらと眺めていたところ、「恋」を歌っている星野源さんを拝見したわけです。「あれ? よいのでは?」と、いまさら思い、年を越して2017年を迎えても「恋」が頭のなかから一向に出ていかないので、兄のアマゾンアカウントでデジタルミュージック売り場にログインして、星野源さんの「恋」のシングル? ミニアルバム? みたいなのを買いました(ありがとうお兄ちゃん)。全曲シャッフルぐるぐるモードにして今日までずーっと聞いていたのですが、なんというか、4曲じゃやっぱり足りなくない? 足りないよね? ということで今日また兄のアマゾンアカウントで――(他人のアカウントへのログインは規約違反かもしれないし以下自粛。事後承諾は貰っています! いやでも事後承諾じゃないのかな、事前の包括的委任は受けているんだし――とにかくありがとうお兄ちゃん! とブログに書いている男はもうすぐ三〇歳、いやまだしばらくあるからアラサーじゃないよね!)

www.hoshinogen.com

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 したがって、そう、アルバム、今日ダウンロードで買ったのです。にわかファンとか言うレベルではありません。にわか中のにわか、にわかオブにわか、ニワトリ年だけににわか、にわにはにわにわとりがいる。なのにブログにいろいろ書こうとするからすごいよね。なんでだろう。なんかたぶん、少し感動したというか。
 今日という日。今朝は起きてむにゃむにゃしながらツイッターとかのニュースを見ていたら次期アメリカ大統領のトランプさんが報道陣になんかよくわかんないけど質問をさせないとかそういうニュースが出ていて、そのニュースをめぐってジャパンのツイッターなどのソーシャルなネットワーキングでは、やれトランプ最悪だ、やれトランプ最高だと書いてあって、なんとなく気が滅入る朝のはじまりだったのです。僕はどっちかっていえばトランプ最悪チームの末端に属している(属しているのか?)人間で、全然中立的な人間ではないのですが、トランプさんに関するニュースをきちんと追いかけてないし彼の強調するような国内大切にしちゃうし国外に行く企業のことは脅したりしちゃうぞ政策の経済効果云々についても全然よくわかんないのです。だから自分は、特に何かここで意味のあることを述べられる人間ではないように思うのです。
 意味のあること。
 そう、でもなんか、トランプさんやトランプさんの支持者が希求しているのは「意味」であるような気がしているのです。いまどきはポスト産業社会みたいな感じで雑に言うと色んなコミュニティの解体や形骸化が進んでみんなが「意味」を失って意味喪失=アノミーの状態になる時分なのかなと思うのです。なんかアノミーなのはトランプさんの支持者も反対者も同じ感じがして、両者の違いは立ち位置とかアプローチの仕方とか、過ごしてきた「時」の違いなのかなと思う。
 いやそもそも「意味」って何? という話なのだけど、その答えは「人によって違う」とか冴えないものになってしまう、冴えない答えしか用意できないのが今時分の雰囲気で、それが嫌なのがトランプさんとか(の支持者)なのかもしれないという話です。というのも、例えば昔だったら「人生の意味は○○である!」ってみんなで同じものを信じて過ごせていた社会があったのかもしれないのです。そんななかで大きな時流に乗れていれば承認欲求など湧いてくるまでもなく生きる意味でいっぱいの生涯を送れるのであり、死んだ後も誰だって生まれ変わったり天国にいったりするに決まっており、不安もないのです。
 いや、いまだってそういうふうな宗教を信じられるじゃないかって? いやそれは違うのだ。いま特定の宗教を信じて活動してみても、みんなはなかなか「すげえ、○○さんもう××の祈りできるんすか!?」とかにはならなくて、生温かい目で「○○さん宗教信じてるらしいよw」ってなります(少なくとも日本だと)。誰だって(誰だってかはわかんないんだけど大勢はおそらく? たぶん?)みんなお互いにお互いの正しさを承認しあって生きていきたいのであって、もっといえば社会で正しさを共有しあって安心したいのであって、みんな違ってみんないい、とかじゃあ、なかなか満足できないというお話なのです。だから恋人とは価値観が合うのが大事と言われたり、子どもは親の言うこと聞かなきゃいけないと言われたり、会社では共通の目標を持って作業することが大事とか、ナショナリズムとかコスモポリタニズムとか、いろいろ、とにかくいろいろいっぱい、意味を補填するロジックが出てくる。ただ、価値観を共有するのは気持ちいいかもしれないけど、価値観を共有する集団では、価値観を共有できてないひとをどうするか問題っていうのが必ず発生し、それは逸脱者を矯正したり強制したり追放したり殺したりいろいろなんだと思うのですが、まあどうあっても物騒で、でも価値観が生まれてから時が経ち、また共有する人々の数が増えれば増えるほど、否応がなくそういう「信じきれない」は生じるのではないかと思うのです。
 トランプさん、というかトランプさん的なるものに対する肯定的反応と否定的反応というのは、それぞれ、どういった価値観を広めたいと考えているかで分かれるのだと思います。ものすごく大雑把に図式化して考えるとすれば、なんらかのひとつの価値観に依拠して、自分はそれに従っていき、さらに世界にそのようにあってほしい、そのように生きる自分を世界にまっすぐに認めてほしいと思うひとは、トランプさんにわりあい好意的なのではと思う。そして率直なその人々はある面でまったく悪いひとたちではないのだと思う。一方で、トランプさんに否定的に反応しがちなひとは、ある種いくとこまでいった究極的な「みんな違ってみんないい」世界の支持者というか、どんな価値観に対しても一歩引くというメタ的な価値観を支持している人々ということになるかと思うのです。みんなに優しくて結構なことじゃないか、共生が一番! と口で言うのは簡単なのですが、この「みんな違ってみんないい」世界の苦しさというのは、実は自分が信じていたはずの価値観をも、本当の意味では信じられない状態に陥るということです。どんなこともひとつの考え方、誰かにとって正しいこと、になってしまうとしたら、自分が信じていることが正しいという保証もなくなるのではないでしょうか。この辺、うまくブレーキ掛けながら考え込みすぎないでスルーできると強いのですが、うっかり考えすぎると闇堕ちするところです。行き着くところまで行き着くと、自分の考えも確からしくなく、他人の考え方も確からしくない状態、「みんな違ってみんないい」から「誰もよくない、わるくもない、何もわからない」へと変わりかねません。
 この「何もわからない」こそが「意味」がないという状態、アノミーといって差し支えない状態(アノミーという言葉を考えたデュルケームマートンに認めてもらえるかは怪しいのですが)というわけです。ちなみに僕もだいぶ何が何だかわからなくなっておりますので、プチアノミーといって差し支えありません。超ウルトラハイパーアノミーになると人は自殺したりする、とフランス人のデュルケームさんが分析したというのがこの言葉の始まりらしいですが、僕は社会学のことちゃんとわかってないまま適当に書いています。すみません(今後ノ研究課題ニシマス。ちなみにアノミーの頭に勝手に付け加えた「プチ」はフランス語です。ブルボン)。
 何にせよ、トランプさん肯定的チームと否定的チームの戦いは、意味をめぐる戦いなのでは、というお話です(ありきたりだけど)。
 肯定的チームは豊穣な意味を求めて戦いますが、でも大きな集団で豊かな意味をもたらす価値観を適用すれば、そこに含まれることのできない人々を排除する作用が強く出ます。また、科学や通信技術の発達によって、そもそもその「豊かな価値観」のもっともらしさ、それっぽさを維持すること/共有すること自体が難しくなってきていて、あまりにこれに拘ると、ともすれば暴力や強制が広く用いられる危険性もないではないです。
 といっても、否定的チームは下手したら自殺したくなりかねないような、アノミーな状態に陥りかけながら、ぎりぎり手前で踏みとどまり、「意味は~ありそうでないっていうか~ないわけではないんだけど~あるんだけど~でもみんな違うんであって~」みたいな苦しいことを語り続ける感じで、わりと無理ゲーというやつです。無理が出てくるとこちらも暴力や強制の発動が予想されます。違う違うそうじゃなくて、もっと優しく、みんな違ってみんないいってやりたいのに! わかってくれないひととの共生は強制するもんじゃない! でも、わかってもらえず、なあなあになっていくと、暴力に訴えるのだって自由だもんね、みたいに、全部ふりだしに戻るのであり、この辺りは非常に微妙なところです。
 最近はディズニー映画やハリウッド映画にも、この辺りのメタ的価値観に基づく世界を語ろうとするものが散見されます。直近では『ズートピア』や『ファンタスティックビースト』は、もろにそんな感じが致します。トライエヴリシング! これってものはないけど、何でもやってみよう、お互いに思いやりを持とう、世界を動かし続けよう! 『イントゥザウッズ』とかも、ともかく大人は自信がなくとも祈りを込めてストーリーを語り聞かせてゆくのだ、みたいな感じで終わった気がします(2回見たわりには記憶が曖昧ですみません。おもしろいよ!)。

 そんなわけでみんな社会を成り立たせる意味を手さぐりで探しながら必死で、どんな意味を叫んだとしても誰かを傷つけそうで怖い、でも、傷つくひとに文句言うのもお門違いだし、そもそもいまおれたちみんな、意味が足りなくてこんなにも寂しくてやりきれないというのに。あああああああああああ、おかしくなっちゃうよ、世界はそんなふうになっている、そんなふうになっているときに、でも、はじめのほうに書いたみたいに、星野源はばっさり「意味はない」と言うのであった。軽やかに。楽しげに踊ったりしながら。
 世界に意味がないっていうのは「時」に出てくるだけじゃなくて、もう色んな曲にわんさか現れるフレーズなのです。もちろん大ヒットした「恋」でも歌われております。

意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ
ただ腹を空かせて
君の元へ帰るんだ

 ばっさりです。意味はなく、あるのは暮らしだけです。虚しくないのでしょうか。たぶん虚しいのではないかと思います。でも「この世にいる誰も 二人から」生まれてきており、「愛が生まれるのは 一人から」なのであり、こういう「胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの」のことを「いつも思い出して」と歌われてもいます。誰もが二人から生まれ、恋せずにはいられないまま、何かを愛して生きてゆく。え、でも、これは生きる意味なのでは? そうかもしれない。そしてこの歌の最後は「夫婦を越えてゆけ 二人を越えてゆけ 一人を越えてゆけ」です。一人を越えるってどういうことなんだ? 夫婦(制度)や二人(カップル規範)を超えるのはいいけど、一人(何かに恋する自分)を越えて、どこへ行くんだろう?

    とにかくなにか、僕の暮らす場所――つまらないことに悩む世界――を突破して、星野さんが遠くへ行きました。そこはなんとなく意味がなくとも生きていける世界であるような気がします。え、それ、すごいのでは?
 そして「恋」におけるこのすごいことは、「時」で、意味のない時のなかで今を生き死に至るまでを、センチメンタルにならずに歌い切った精神に繋がると思われます。「恋」のシングルに同時に収録されている「continue」は、「命は続く 日々のゲームは続く 君が燃やす想いは 次の何かを照らすんだ」……「足元の ひとつ先の方」と歌います。毎日の生活を「ゲーム」だとして、歌の名前をコンティニューとすることには、生活や暮らしに大きな意味を見出す営みを揶揄するニュアンスがありますが、一方では淡々と、無意味な出来事が、次の無意味な出来事へつながることを指摘します。意味もなく時は続き、自分はどこかでそこから降りる。そして自分が「燃やす想いは 次の何かを照らすんだ」。

    ちなみに前述の通り「恋」では明確に「愛が生まれるのは 一人から」と歌っているのであり、「次の何かを照らす」は、おそらく進化論とか自分の子孫を残そうみたいな話ではないと思われます。どっちかっていうと物理的な現象というか、大きな宇宙のなかで小さな自分が生きたことも、バタフライエフェクト的な、風が吹けば桶屋が儲かる的な展開を見せるんじゃねという雰囲気を感じます。

 こうやって聞いていて思うのは、とにかくこの星野源というひとは、あるがまま死を見据えているということです。意味がないという言葉も死のイメージから生まれているように思われます。死を見据えたうえで、死をノリノリで(どっか笑っていない目をして)明るく歌い飛ばしている。
 無視できないこととして、(わりと周知されている事実な気がしますがともかく)wikipediaによると(ソースがクソですみません)星野源さんは2012年から2013年にかけてくも膜下出血と診断され、活動を休止した事実があるようです。2017年から(数週間前であり、初のアルバム購入は今日である)星野源を聞き始めたクソにわか野郎の僕は活動休止以前の歌をまだきちんと聞いておらず、この入院の経験が、どのくらいこういう星野源の死を見つめる姿勢に関係しているのか、入院前の歌と比べられないし、よくわからないのですが、でもなんか今日買ったアルバムに入っていた「地獄でなぜ悪い」という歌を聞くと、入院してたときの所感なのだろうか、と思ったりもします。安易な考えかもしれない。
 「地獄でなぜ悪い」は冒頭でなんか、どびゃーんとした音(音楽的素養がゼロであることを示す表現)が聞こえてきたあと、元気な感じで進行する曲です。歌詞も最初からぶっこんできたなという感じです。

病室 夜が心をそろそろ蝕む
唸る隣の部屋が 開始の合図だ

 もうどう考えても入院している星野源さん。そして隣のベッドの人とか唸ってるよ。あれ、部屋って言ってるから、個室で隣の部屋のひとの唸り声なのか。ということは唸り声は廊下を伝って聞こえてくるほどの声量なのですか。そんなうきうきした感じで歌うことじゃないよ。
 この歌も軽やかに歌い上げるわりにパワーワードが続きます。

無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちた時から 出口はないんだ

 生まれ落ちた時から我々に出口はないのです。まじかよ。別の箇所では「生まれ落ちた時から 居場所などないさ」と歌います。居場所もありません。じゃあどうやって過ごすのかというと、「いつも夢の中で 痛みから逃げてる あの娘の裸とか 単純な温もりだけを 思いだす」とかそんなふうな入院生活です。でも待って。入院したひとだけがこうなの? どうやら違うらしく、そもそも「作り物だ世界は 目の前を染めて広がる 動けない場所から君を 同じ地獄で待つ」、ということで、我々はみな同じ地獄におります。しかも作り物です。でも世界が自分の吐く「嘘でなにが悪いか」、世界が自分の夢見る「作り物で悪いか」と問い返してくるのもこの歌です。

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

 世界は自分の作り物なので、自分が死んでしまえば、どこまでも広がるはずの世界は消えてしまいます。当たり前っちゃそうなんですけど。いや歴史的には当たり前じゃなかったのかな。死後の世界へのもっともらしい説明のある社会のほうがずっと長く存続していた気がしてきました。

    でも星野源はそういう神話的解決を拒否します。星野源さんの解決は「ただ地獄を進むものが 悲しい記憶に勝つ」とか「動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ」とかです。地獄には出口も居場所もない、でも、そのまま進んで悲しい記憶に勝ち、明日を掴む。
 こうなってくると、嘘でできた作り物の世界というのは、単に自分ひとりで作り出したものではなく、痛みに耐えるために多くの人々がみんなで作った(しかしほんとうはいつ崩れるかわからない)「どこまでも」の感覚なのだということになってきます。「どこまでも」世界が続くとか、そんなのは嘘で作り物で、そんなことしているようでは「悲しい記憶に勝つ」ことはできない。「ただ地獄を進む」「同じ地獄で待つ」といったフレーズは、世界がいつか終わるということ、世界が嘘であること、自分はいつか死ぬということを直視せよというメッセージに思われてきます。
 死を意識してこそはじめて、人間は悲しい記憶に勝って明日を掴んで立つことができるのだ。

    ということでこの歌のメッセージを相当重たく受け取ってしまったのですが、伝えられ方はとてもとても軽やかです。そのギャップは不気味で、魅力的です。とりあえず死を見つめて生きてみてるけど、おれ今、別に平気だよ。そう明るく歌っているように聞こえる。この辺り、僕は「え、まじで? アノミーでも人間って死なないの? いやアノミーじゃないってことなのか? ええええ、なんだこれ」とちょっと驚いてしまうところです。だってむしろアノミーであるからこそ生きていけるって、そんな倒錯したところで星野源は歌うから。
 また、僕の知らないところでドラマの主題歌になってヒットしていたらしい「SUN」は、こういう星野源の「世界って思い込み」というコンセプトを、とにかく明るくポジティブに展開させたものに聞こえます。が、もちろん「SUN」のなかでも死の影はちらつきます。

僕たちはいつか終わるから
踊る いま

 いつも通りの端的でどストレート、なかなか真似できない巧みな言葉選びです。その他、サビの部分の「雲をよけ世界照らすような」とか「澄み渡り世界救うような」とかからは、そもそもこの世界が救われるべきところというか、やばいところ(=地獄)であり、だからこそ君の声を求めるような楽しい幻想をもつことが大事だよね、というメッセージが滲みでてきています。あれ、でも、現実を直視しないといけないんじゃなかったの? そう一瞬思うでしょうか。これはおそらく、世界やいろいろなものが嘘で作り物であるとわかったうえで、作り事であるからこそ、既存のものを妄信せず、楽しい素敵なものに作り変えてゆこう、それは無理ではない、この世界は「すべては思い通り」なのだ、というコンセプトと思われます(「恋」にも似たような、想像力やイメージを通しての世界の作り替えを示唆する歌詞があります)。
 ああ、ちょっと地獄を明るい気持ちで歩く方法が示されてほっとしたような感じがする、といっても、「SUN」では「幻想」だと歌われてしまってもいるので、不安も残ります。
 たぶん、いくら世界が一種の作り物で、思い込みのようなものだとしても、自分の好きなようにできるというのは、やっぱり幻想なのです。「Soul」では、海や夕日、初恋を描写したうえで、以下のように続けます。

言葉に ならない Soul
名もなき 記憶に 見える 見える
道外れ 逸れた者
身体に 刻んだ 時を 越えて

 客観的に続く「時」は身体に刻まれ、記憶に残り、Soulなるものに残るという感じでしょうか。この歌、サビは「おお 此処から おお 世界が おお 此処から おお 心が」と繰り返し歌い、最後は「今でも 此処から いつでも 世界が 今でも 此処から すべては 心が」と展開されます。常に世界は自分を中心に、「いまここ」から受け取って「いまここ」から広がり、心とはその広がりそのもの、そういう感じでしょうか。
 したがって「Soul」では、客観的に続く「時=世界」から「自分=身体」が構築されていく、という、世界から自分が獲得されるイメージを得られます。自分で世界を作ろう、という「SUN」のイメージとは因果関係の矢印が反対方向ですが、あんまり矛盾した感じはしません。「時=世界」と、「今=自分」とが、お互いに影響しあって成立するような世界観(弁証法的というかなんというか、なんか現象学的社会学みたいな)がここでは示されている気がします。

    したがって、世界はわたし/あなたの好き勝手にはできません、でも、世界は確かに我々の働きかけによってできてもいるのだ。
 そして、星野源は楽しそうに歌うという方法で世界に働きかける。あれでも、何か働きかけたいことがあるっていうことは、意味を生み出す特定の価値観を信じられている、ということなのかな。いや違うのか。どうせそのうちに死んでしまうし、意味のある正しい働きかけかどうかなんて知らない、とりあえず自分のやりたいようにやろうということ?    実のところ星野源がやろうとしていることも、みんなで価値観に捉え直すこと自体を積極的に捉えていくというメタ的価値観の再提出で、『ズートピア』的なものの変奏なの?    そんな気もしないでもない。でもなんか、やっぱり絶えず「ひとはいつか死ぬ」「世界は地獄」が付きまとうせいでしっくりこない……。どうせ全部無意味だし今が楽しければいいっていう刹那的な快楽主義? 感覚的なものや気持ちのいいものに溺れようってこと……?
 いよいよ正直これを書いている僕自身わけがわからない、星野源が持つ謎の「越えていく感」に向き合うしかないところに煮詰まってきています。というわけで最後に「Crazy Crazy」を少し見て、このくそ長いにわかブログを終わります。

お早う始めよう
一秒前は死んだ
無常の世界で
やりたいことは何だ

 客観的な「時」のうえに「今」が乗っかるイメージと、絶えず繰り返される死のイメージは、ここにきてついに「おれたちって一秒ごとに死んでるじゃん」みたいになってきました。そうか僕は今もずっと死に続けてるのか。まじか。でもそうかな。え、なんかこわい。

愛しいものは 雲の上さ
意味も闇もない夢を見せて

 ああああ、やりたいことについて聞いてきたくせに、そのやりたいことの基礎にすっごくなりそうな「愛しいもの」を雲の上にあげてしまった……。雲の上って、やっぱり手が届かないものとかもう亡きものになっているというニュアンスですよね……。さらに「自分のやりたいこと(=個人的な小さな意味)に従って世界に働きかけていこうぜ」って方向性で一瞬(僕のなかで)まとまりかけたものがぶち壊しにされるが如く、再度「意味はいらない」系の強調いただきました。ありがとうございます。でもどうやら意味だけでなく闇もないようで。というか違うか。「意味も闇もない夢を見せてほしい」ということは、現状、世界には意味や闇が満ちているのかもしれないですね。そうするとやはり「意味を捉え直せ」ではなく、「意味を棄てよ」というのがもはや星野源の主張のように思えてきます……。

    なんか楽しそうに意味を棄てよと囁いてくるから、嫌なこと忘れて気持ちよく過ごそうぜ、欲望に溺れて好きに生きていこうぜ、的な展開を見せるかと思いきや、次には「欲望を越えろ」が出てきます。

等しいものは 遥か上さ
谷を渡れ 欲望を越えろ

 こんなに楽しそうに歌ってるのに、欲望は越えるもの、ということで、もはやストイックで荘厳な雰囲気すら漂います。やはり好きに楽しく生きようぜとかそういう軟弱な次元ではないようです。
 するともう、意味(=ある種の論理)もなければ、欲望(=感情)もない。
 一切の秩序がないじゃないか!!! どうしたらいいんだよ!!! 頭おかしくなるだろ!!!
 そう思っているとサビでは「頭おかしくなればいいんだよ」と言われてしまう。え、あ、はい。そういえばそんなタイトルの歌でしたね。

Crazy Crazy 可笑しい心踊れ
Crazy 狂って ふざけた場所で逢おうぜ
Crazy Crazy 可笑しい頭揺らせ
Crazy 狂って どうかしてると笑えば
あのただ優しい 歌声はまだ続く

 そして頭おかしくなってふざけて笑い合った先では、「まだあの声がする」「まだあの言葉が」「あのただ優しい 歌声はまだ続く」ということらしい。何だろうこの歌声……わかるようなわからないような……。赤ちゃんの頃に聞いた母親の子守歌みたいなイメージ? とりあえず何らかの祝福が与えられるということだろうか?

    でもそしたらその祝福をベースに意味の体系が構築できてしま……うのか!? そういう意味の構築自体をするなという風に言われている気がする。もうわからない……。こうやって理屈で図式的に捉えるのをやめろと言われている……? おまえがそうやって考えているあいだは、やりたいこともやるべきこともわからないだろう、というような……。
 なんだろうなあ、人生を取り囲む「意味」を棄ててはじめて、か弱い生身の人生が姿を現すとか、そういう感じだろうか。最後の肝心のところが掴みきれないのは、僕自身がまだ意味を諦めきれていないからかなあ。というか音楽的素養がないからか……。
 しかし確かに、意味をめぐる闘争とか眺めていると、もう意味とかどうでもよくない? と思う瞬間がいくらか僕にも訪れてはいる……それは投げやりというより、なぜそんなことに拘るのか、大事なことは他にあるのでは、というような、でも、その大事なことこそが、それぞれにとっての意味のはずで……意味がないと豊かに幸福に生きていけないのであって……? ぐるぐる。
 意味がないのは不安に思えるけど、もしかすると人間は、意味がなくても生きていけるのかもしれない。というか、現に確かに僕は大した意味もなく生きてはいる。意味を求めようとするのをやめて、さらに欲望も越えて、ただ優しく聞こえる歌声に耳を済ませるという道があるのだろうか。みんなが意味意味意味意味いってる時代に、世界は無意味だと高らかに歌い上げてヒットしている星野源は不思議だ。そしてそれは、時代遅れだとかそういうことではないと思われる。むしろ何か重要なものを掬い上げている気がする。

 意味など求めてはならない。意味のことはもう諦めろ。意味を諦めたところで、ひとははじめて優しさを得ることができるのかもしれない――? どうなんだろう?

 というわけで、鳥頭で始まる2017年です。これ本当にアップするのかな。恥ずかしいぞ。最後まで読むひといるのか?(12000字以上もあるよ、やべえ)
 しっかり読んでくれた方も流し読みしてくれた方も、ここまでスクロールバーを動かしてくれたひとはみんな友達です。ありがとうございました。
 本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

※「桜の森」も、明らかに坂口安吾の『桜の森の満開の下』を意識しており、言及したかったのだけど、長くなったしやめました。「夜」で傍にいてくれる星野源の優しさも、最後の意味を捨てよ、と関係してくる気がしましたが、いよいよ自信なくなってきているのでやめました。そもそも僕は音楽のことはよくわからないのにいろいろ書きすぎました。でもとりあえず良い気がするので、深い意味がないという深い意味(いや意味はないのだが)を感じるために、意味と闇の蔓延る現代を突き抜けていくために、みんな星野源、聞いてみてね! ファン歴数週間のにわかファンとの約束だ!