良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています

映画ちいかわ 人魚島の秘密EDテーマ「机さする」の歌詞を考える

 映画ちいかわ 人魚島の秘密EDテーマ「机さする」の歌詞がとても美しい一方で、意味的には、なぜ?どういうこと?という箇所がある。これを解きほぐすために、野暮な分析・解釈をしていきたい。

 結論から言えば、この歌詞は、「近くにいる言葉を持たない存在のなかに、もう今は近くにいない大切な存在の気配を感じ取りながら、その大切な存在との記憶や約束が消えないよう記録しようとする」、そして「いずれは消えるという記憶や約束の儚さを思い、確かに形ある存在として手元にある“机”をさする」という内容として解釈可能であると考えている。

 Aメロ前半では、「気付いたら朝だった(1番)/気付いたら夜だった(2番)」という無意識下での時間の経過を扱う。

外を見ると もう明るいよね
眠れなかったけどさ 頭冴えてる

青木遥「机さする」

外を見ると もう暗いよね
出かけなかったけどさ 割と満足

青木遥「机さする」

 気付いたら徹夜、気付いたらもう夜、そういった経験は誰にでもある。ただ、ポイントはそれが否定的な経験としては描かれないところである。「けどさ」と逆説がつながり、ここでは、無意識に時間が過ぎたことは悪いことではないとされる。

 Aメロ後半では、二人称で近くの誰かに語りかける内容となっている。

そっと 見ると まだ眠たいよね
もすこし寝てようか おやすみ

青木遥「机さする」

そっと 聞くと あのいつもの曲で
またこの時間だよ おやすみ

青木遥「机さする」

 1番では、夜更かしして朝を迎えたとき、近くにいた存在を起こしてしまったが、改めて寝かしつけているように読める。
 また、2番では、気がついたら暗くなっていたときに流れてくる「いつもの曲」への言及がある。夕方を告げるチャイムの音か、あるいは特定のテレビ番組の音楽かもしれない。定時になると流れる「いつもの曲」を耳にしたことで、暗くなってきたことに気がついたのかもしれない。夕方を告げるチャイムなら、まだ眠るには早いようにも思えるが、ここでは近くにいる存在に「おやすみ」と声をかけている。
 (いずれも、自分が眠るときの「おやすみ」なのか、相手を寝かしつけるときの「おやすみ」なのかははっきりとしない)

 Bメロは、歌詞中で最も意味を捉えるのが難しい箇所となっている。

たとえば 鳥 あるいは ねこ
そのなかで 見てるって
思うのも自由
何があったか べつに
聞かないけどね

青木遥「机さする」

たとえば いぬ あるいは さかな
その中で 見てるって
思うのも自由
明日は たぶん 起きたとき
そんなんじゃないんじゃないのかな

青木遥「机さする」

 鳥、ねこ、いぬ、さかなの中で「見てる」とはどういうことだろう。描かれた動物たち(鳥、ねこ、いぬ、さかな)は、言葉を持たないまま、人間と生活を共にしているか、身近なところにいる種類の動物たちのように思える。Aメロにおいて「おやすみ」と語りかけていた対象は、これらの動物なのだろうか。飼っている動物をはじめ、そのようにも理解できそうであるし、例えば猫であれば、夕方の時間に「おやすみ」と声をかけてもおかしくはないだろう。ただ、「たとえば」「あるいは」と述べられていることから、こうした動物そのものであるとは限らず、これに類するものも含まれるようでもある。
 そして、語りかけている対象もまた、より厳密には、「たとえば」「あるいは」と列挙された存在そのものではないようだ。歌詞は「その中で見てるって思うのも自由」としており、おそらく、外形上は動物たちに語りかけているようであっても、語り手が本当に語りかけている対象は、動物たちの「中」にいる存在であるようだ。動物たちの中には自分を「見てる」存在がいる。その証明はされないが、そう思うのも自由だろうと述べている。

 それでは、語り手が動物たちのなかにいると思っている存在とは何か? 
 てけしゅん「『ちいかわ』最終回を今描く、「机さする」」(https://note.com/tekeshun/n/n3ae9e0f98fcb)は、この箇所につき、「亡くなった人の魂が動物に乗り移って会いに来るという現象や伝承」を踏まえているのではないかと指摘しており、かなり説得的である。
 この解釈に従えば、おそらく、動物の外形を通して語りかけている対象は、既にこの世にはいない存在(身近な亡くなった人か、動物か、はたまた大切にしていた物なのか)であると考えられる。そしてこのように考えれば、鳥、ねこ、いぬ、さかなに類するものとは、こうした死者や超自然的な存在の魂を宿らせることができそうな、強い言葉を持たない存在なのではないだろうか。したがって、例えば幼い子どもをここに含めても良いかもしれないし、ぬいぐるみのような存在を含めて捉えても良いのかもしれない。
 徹夜して冴えた頭で、あるいは気が付いたら夜になっていたというほどに何かに集中していたときの頭で、近くの言葉を持たない存在に「おやすみ」と語りかけるとき、その言葉を持たない存在の目の奥から、今はもういない大切な存在が自分を見ているように感じる。Aメロ・Bメロ前半までの状況はこのように解釈可能である。
 Bメロ後半では、「何があったか別に聞かないけどね」「明日はたぶん起きたときそんなんじゃないんじゃないのかな」とされる。語り手は、どういった経緯でその大切な存在がそこにいるのかを敢えて問いただしたりはしない。そもそも自分でいると思い込んでいるだけなのもわかっている。でもいるような気がする。そして、そんな風に思える状態が明日も続くかはわからない。むしろ、明日また起きたころは、「そんなんじゃないんじゃないのかな」、身近な言葉なき存在の「中」に、「今」いるように思える、過去に失った大切な存在は、もういなくなっているのだろうと思っている(あるいは、いるように思えない自分になっているのではないかと思っている)。読み方によっては、徐々に夢と現実が溶け合い、「今」語り手が起きているのか眠っているのかも少し曖昧になっているとも読める。

 これに続くサビは、1番も2番も同じである。

覚えてても 忘れそうでさ
書いとこ こわいから
あの花瓶 いつか買ってさ
飾ろうね 約束
覚えてても 忘れそうでさ
撮っとこ こわいから
あの場所に いつか行ってさ
見つけようね 約束
今 机さする

青木遥「机さする」

 状況をこのように解釈したうえでサビを見ると、「覚えていても忘れそうでこわいこと」は、おそらく今はもう現実の世界にはいない大切な存在との記憶や約束なのではないか(例えば、故人と昔、花瓶を買って飾ろうと話した記憶や約束を思い出し、書き留める)。あるいは、冴えた頭で、いま言葉を持たない存在を通してそこにいるように思える存在と話していて、たった今新たにした約束なのかもしれない(例えば、今、飼い猫を通して、故人の魂に話しかけながら、故人と結んだ約束を、忘れないように、猫の写真を一枚撮る)。いずれにせよ、明日の朝にはもう「そんなんじゃないんじゃないのかな」と思えるようなことである。今は覚えていて忘れたくないと思っている記憶や約束であっても、極めて脆く崩れやすい、何のことだったかもすぐに思い出せなくなってしまうことである。語り手はそのことを自覚しているからこそ、「書いとこ」と思うし、「撮っとこ」と思う。
 そして最後でありタイトルとなっている「今机さする」で結ばれる。「机」はここまでに出てきていないが、「気が付いたら徹夜だった」「気が付いたら外に出ずに一日を過ごしていた」そうしたときにこの語り手は長い時間なにをしていたかということを思えば、連想できる状況はあるだろう。語り手はおそらく、机に向かって一人で何らかの作業を続けていて、その傍らで、動物や子どもがいるか、あるいはぬいぐるみのような物が置かれている。傍らの存在は眠ったり起きたりする、そしてその存在の「中」に、語り手は、今はもう現実世界にいない誰かの気配を感じている。
 そのようななかで「机さする」動作は、儚い存在とは対照的に目の前に物理的にある机をさすることで、消えてしまいそうな記憶や約束をもつなぎとめようとする行為なのかもしれない。あるいは、机のうえで行っていたのが例えば漫画を描くことであったなら、机をさするとは、作品を作る手を少し止めて祈りを込めて机を触ることかもしれず、あるいは、机の上で作品を作り出すその手つきそのもののことを指しているのかもしれない。夜通し/一日中作業をして、だんだん眠くなってきた。瞼が重くなって、机の上に突っ伏して眠りこけてしまう、そんなときのことを「机さする」としているのかもしれない。

 

× 描いとこ

「机さする」の作詞は「ちいかわ」の作者のナガノ氏が手掛けている。そう考えると、この曲は、作者が「ちいかわ」を生み出すプロセスについて歌っているようにすら思われる。当然、これは単なる想像であるが、ナガノ氏はネコを飼っているようであり、傍らで飼いネコが眠る中で、夜通し/一日中、ちいかわをはじめとした作品を作った日もあったのではないか。そんな日に、今はもう会えない大切な存在の気配を、飼いネコのまなざしの向こう側に感じることもあったかもしれない。そして大切な存在との記憶や約束を記録しようと、ちいかわをはじめとした作品を描いてきたのかもしれない。もちろんそうではないかもしれない。

 歌詞での明示される記録の方法は、漫画を「描いておこう」ではなく、「書いておこう」「撮っておこう」である。しかし、直接「描いておこう」に言及しないことこそが、我々に逆説的に作者を思い起こさせる。書いたり撮ったりしたことをもとに「描くこと」こそが、「机さする」ことであるかのように。

ちいかわの映画めっちゃおもろい

 「かわいさとダークなストーリーのギャップ」とかいろいろ言われるが、そういうことではない。そもそも人間がいない世界に、しるこサンドやキャロライナリーパーといった固有名詞の登場、友とはぐれて絶望したとき、友と食べた「郎」を見つけたかと思ったら、「島」にある二郎なだけに、島二郎だった、「は? 進研ゼミ?」という狂気、ラーメンは出ずに延々とカツカレーと貝汁が推され、気が付いたら現実まで浸食され、ココイチとコラボする。アサリやホタテ入りのカツカレーを食べる。そういうことだ。

 現実を容易に侵食することからもわかるようにキャラクターの孤独、葛藤、パッションがひたすらに本物である。ちいかわ、なんかちいさくてかわいい、ひたすらに弱い存在たちの物語が軸にあり、その対となるところに、圧倒的につよい、でかつよ的存在がある。映画でいえばセイレーン。弱い存在と強い存在とが決して交わることはないようにも考えがちだがそうではなく、弱い存在は急に強くもなるし強い存在もまた弱さを求めてモモンガすることもある、これはシルバニアファミリー以来貫かれているテーマである。想像力による越境へのあこがれとその実現とその実現に伴う歪み、あるいは喜び、あるいはもともとそうであること自体にある理不尽と歪み。これはもう端的に現実のことである。

 ちいかわ作品世界は弱い存在だからこそ見えることがあり強い存在だから見えないことがあるということを描き続けている。映画でいえばセイレーンはめっちゃつよいがこれにより、弱い存在一般への感受性はかなりない。普通に弱いものは食べ物である。生き物としてのステージが違いすぎるからいちいちその苦しみは想像しない。だから人魚を食べざる得なかったストーリーをどう語ってもまったく納得はしないだろうし、そもそも友達を食べられたり殺されたりしたとして相手に事情があったからと言って許せるものではない。たとえ自分が原因であったとしても、それを認めることは難しいであろうし、そもそも根本的に存在の在り方が違うものであれば自分が原因ということの意味もわからないしわかりようもないのだ、ということを一切の甘えなく描き切っているのが本作である。

 逆側もまた本物の感情のオンパレードであり、報復として、ただまた相手と一緒にいたいという理由で永遠のいのちを押し付けてしまう身勝手、知らぬうちに永遠のいのちを手に入れてしまったことの恐怖、その恐怖を利己的な理由から親友にも味あわせようとしてしまう、助けてもらったとはいえ助けられたことが幸福とは限らず感謝するとも限らない、作り物みたいにきれいな友情ではない2人、お互いが唯一になってしまったことで周囲からあらゆる意味で切り離されていく、他の島民がいくら連れていかれようとお互いにとってのお互いの価値とそれ以外の価値が比較できないほどに大きくなっているというかそれは愛情とか友情とかだけではなく、存在としての性質の変化にも由来する圧倒的ふたりぼっちの境地。

 本作は最後にセイレーンぱしゃーんなんか暗くて狭いところで終わる予感に満ちているわけだがその意味ではすでにずっと二人は暗くて狭い所に居続けていたしこれからもいるしかない、それはセイレーンに捕まらずともそうなのであり罪を犯したことの応報ということでもなく、そのような存在にお互いがなったという端的な事実だけに由来する、事実、現実、本物の感情これらが支配するのがちいかわの世界である。

 二人の握り合う手が震え続けることに対する感受性を持てるのが主人公のあまりに弱すぎるちいかわであり、それこそがなんか暗くて狭い現実に対する小さな希望として機能している。いつまでも友達でいることができることは幸せなのか? そこで閉じてしまうことが? いつまでも友達ではいられないことこそが幸せなのだろうか? 終わるということは開かれるということなのか? なお原作で強さを求めるハチワレとそうでないちいかわがいずれ袂を分つ可能性は繰り返し示唆されており映画でもすべてを終えた後のハチワレの感想は「もっと強くなりたい」である。

 いつ失われるかわからないのであれば欲しいもんは手に入れるというモモンガの哲学こそが正しいことにもなりかねず、ときにそうした行動が結果としてちいかわを救うことにもつながる。ちいかわはいつ失われるかもわからないような弱い存在であるが未来のことを計画し行動している、愚かなこともあるし見通しが甘く未来があると信じることに根拠もないかもしれない、ときに乾電池が必要になった二人のように何の過失もないのにすべてが変わってしまうことはある。作品はずっとそうした弱さ、儚さを描き続けるが、同時に、儚さのなかで生きているということ、その奇跡があまりに日常的で、あまりにシュールで、あまりに緊張感がないことを示し続ける作品となっている。

 でかくてつよいことは現実の世界で起こり続けている、8月はそうした現実を想像するのにあまりに適した季節であろう、あまりに日常的に、当たり前みたいな顔をして、いつか自分の番が来て、我々はすべてを失う、あるいは暗くて狭い永遠へ行くだろう。それは圧倒的な現実で、それでもそこまでのあいだに何かをかみしめていいんだ、何かをか細く信じてすがっておろかに生きてもいい、ということを、同時に、あまりに卓越した表現で示している。future oh noであることを忘れて漂泊してfutureに向かってよい。また夜が来て夢を見る。朝が来るかはわからないのに、来ると思って夜を過ごすのだ。

 

覚えてても 忘れそうでさ

書いとこ こわいから

(映画ちいかわ 人魚島の秘密EDテーマ『机さする』より)

 

リハビリ読書 波木銅『万事快調』(文春文庫、2023年)

 スランプが続くのは読書が足りないから、ということで、読書をします。仮猫田休先生(https://note.com/wawawa_629) が波木銅『万事快調』をくれたので読みました。とてもおもしろかったです。

 原発のある東海村を舞台に3人の高校生が犯罪に巻き込まれたり、犯罪に手を染めたりします。主人公たちは犯罪行為をするのですがその背景には説得力が――いや、減刑理由になりそうな事情があるということではなく、著者の描写や人物造形によって、このやけくそな高校生たちに、読者は共感を余儀なくされるという意味での説得力が――あります。ばっちり犯罪行為をしているけれど、主人公たちに共感させられてしまっているので、特に後半以降、読者はこの作品世界の倫理観の在り方にどきどきさせられてしまうことになります。この作品世界には、因果応報、勧善懲悪といった要素があるのかないのか、あるとしたら、この子どもたちはこのあとどうなってしまうのか。われわれおとなは、どうなってしまうことを願うべきなのか?

 この「こんなことになっちゃってる作品をどう落とすか」ということに対するメタ的な緊張感は、著者によって意図的に設定されているように思えます。例えば、飲み終わった缶コーヒーを置いたままにしている、ビニールハウスに鍵をかけない、といったいかにも犯罪が露見しそうな描写があり、しかしそのあとでそうした伏線が簡単に思いつくような形では回収されなかったりします。また、3人の高校生はそれぞれSF小説、映画、少女漫画の大ファンであり、それぞれが日々の出来事に対して「○○」という作品でこういうシーンあったなと次々想起していくことで、こうしたメタ的な意識を読者にも呼び起こさせるものとなっています。

 全体的に、青春クライムサスペンスで、映像作品めいた淡々とした文体ながらも、同時に若者の独白が織り込まれ、極めてポップでもあります。しかしモチーフとしてはとてもたくさんの社会派要素が詰め込まれていて、ヒップホップ、大麻、在日朝鮮人、ジェンダー、経済・地域格差、原発、と枚挙に暇がございません。さまざまなモチーフがときに絡まりときに放置され、こんなにも暴力的で野蛮な小説であるにもかかわらず、どこかセンス良く上品に配置されています。それぞれのモチーフをこれ以上ないくらい軽んじるかのようで、むしろ極めて真剣に、現実の肌感覚のもとで扱っています。青春の危ういヒリヒリ感がたまりません。個人的にはこうした要素のなかではなんとなく原発が極めて重要でありそうながらも、作中でモチーフが明快に展開されてはおらず、どう解釈したらいいのかなと思っています。単に私が頭悪くて読めていないのかもしれませんが、それはそれでよい余韻でもあると思っています。お前この映画も見てないの? あのシーンのオマージュなんだけどこれも読み解けないの? と言わんばかりのスノッブで鼻持ちならない作品ですが、そうであるにもかかわらず、生々しいヒリヒリ感を共有されていつのまにか許してしまい、この置いてけぼり感すらだんだんと心地よいです。

 なんだか映画化もされているようで、1月公開だったようです。これだけ映画が出てくる話を映画化するのは、著者も映画に詳しそうだし、監督は緊張しそうです。色んな映画のオマージュ的なシーンを入れたくなりそうですね。そしてカットできる場面が簡単に見つけられそうながら、あらゆる遠回りこそが重要な物語なので、1時間半くらいにうまくまとめようとすればするほど「なんか違う」となりそうです。敢えてぐだぐださせたりジャパニーズサブカルチャーなユーモア(笑)に振ったりしても、痛々しくなってしまいそうです。どんな出来具合なんでしょうか。

 そう言いつつ、最近はどうしてか映像作品に取り組みづらくなっており、映画版を見る日は遠そうです。映画版見た方は、ぜひご感想お知らせください。みなさんからのおたより、待ってまーす。

 

追記: 原発は、弟やジャッキーのエピソードと重なり、反因果応報、即ち「因果ははじめた本人に及ぶとは限らない」という要素で、これこそがこの作品の主題なのかもしれません。私たちにとってクソな世界というのも、万事快調でも周りに影響が及ぶというのも、誰かの行為の責任を取らされている状態と言え、重なるものがあります。ただ、最後は本能だけの少年マンガバトルみたいにもなり、そんなことすらも超越する命が描かれているのかもしれません。