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良い日、ころころ

良い日には旅立たずに転がっています。あらゆるエントリーが長文。

とにかく意味はない、意味のことはもう諦めろ: トランプ、アノミー、星野源

エッセイ

 あけましておめでとうございます、そう言ってよいのは1月何日まででしょうか。おとなになればわかるようになると思っていたことがわかるようにならないまま、身体ばかりが大人らしくなってしまいました。僕は平成元年生まれでして、平成の世が平成三〇年で終わりそうだというお話はなんとなく他人事ではないような気がしております。え? 別に元年生まれでなくとも他人事ではない? いやそうですね。ある意味では日本人ならおよそ他人事ではないと言えるでしょうし、またある意味では、さして日々の生活に影響もなく、他人事と言えるかもしれません。さて、煙に巻いたところで豆知識。実は平成元年生まれは、平成三〇年に三〇歳になりません!(当たり前)
 それにしても日本人としてのアイデンティティとかアメリカ人としてのアイデンティティとかが殊更に話題になる時代になってまいりました。気付いたらって感じですけど、いつからでしょう? いやはや細かい歴史や思想の整理は賢い人に任せましょう。とにかく、冷戦終結後、ベルリンの壁の崩壊と共に生まれた身としては、戦後日本としての葛藤のようなものも、はたまたマルクス主義に熱中して階級的意識を内面化する経験ももないまま、ここまで来てしまったという感じです。ここまでってどこまで?
 いろいろ時の流れについて考えていると、大きな時代が続くことと、自分が年齢を重ねていくこととがわけて捉えらえるものとわかります。
 例えば星野源は「時よ」という歌のなかで二つの時の流れをうまく表現しています。

時よ 今を乗せて
続くよ 訳もなく

 うまい具合に、「今」(自分の時間)と「時」(自分の外で流れる客観的な時間)とを分けておられます。なるほど、直観的にスッと入る漢字一文字が当ててある。すごい!
 でもなんかむしろ気になるのは「訳もなく」の部分で、この歌、なんでか時間が過ぎるのには「意味がない」ということを恐ろしいほど連発するのです。冒頭の歌詞からして「時よ 僕ら乗せて 続いてく 意味もなく」です。もちろん「赤子の声が 柵を手にしてそこに立ち上がり その瞳から生まれた恋が すべてを繋ぎ 今も ここに いるの」等々、個人の時間の始まりや生物の連鎖、心に残る思い出の景色のようなものに情緒的意味を見出すような箇所もあります。ありますが、その後も何度もサビで「訳もなく」「意味もなく」とパワーワードを繰り返しますので、やっぱりそこにも大きな意味があるわけではないのです。意味はないけど我々は生まれていろいろ考えながら感じながら続くのです。
 そして最後は「時よ いつか降りる その時には バイバイ」です。明らかに死んでいるぞ。どうやらこの歌、「今」から始まって「昔」を振り返り、さらに将来の「死」を見据えて終わる、という、なかなか思い切った構成です。すごくテンポが良くて明るいのに、死を見つめている、というギャップにたいへん混乱します。そしてこの混乱、何かとても大切なことのような気がします。
 というわけで、さてさて、実は本日、星野源の「時」が入っているアルバム『YELLOW DANCER』を購入いたしました(あ、でも、これを書いているうちに昨日のことになりました。そしてデジタル購入です。物理円盤じゃなくてごめんなさい……)。昨年は『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマで恋ダンスが流行って、星野源は年末には紅白歌合戦にも出場してたし、とにかく今をときめいています。流行の最先端!
 最近テレビドラマをほとんど見れていなくて、逃げ恥も例外なく見てなくて(でもなんだか面白そうだし見たいのですが、いまなお見れておりません。映像作品といえば最近はなぜか兄から勧められた機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを専ら楽しんでいます。オルフェンズ面白いよ、みんな見よう! ……みんなって誰だろ?…)、流行から取り残され、僕は星野源のミュージックにあまり触れることなく生きていました。昔スマスマでスマップと一緒にSUNを歌うのを聞いたことあるくらいで、あとは全然知らなかった。そのときは「へえ」っていう感じだったし。
 しかし本日星野源のアルバムを買ったということで、そんな日々にも変化があったということです。つまり年末に実家に帰り、近所の安売りスーパーで買った惣菜の海老天をのっけた年越しそば食べた後、マツコ・デラックスさんとタモリさんが一向に会場にたどり着かない紅白歌合戦(なんで?)をだらだらと眺めていたところ、「恋」を歌っている星野源さんを拝見したわけです。「あれ? よいのでは?」と、いまさら思い、年を越して2017年を迎えても「恋」が頭のなかから一向に出ていかないので、兄のアマゾンアカウントでデジタルミュージック売り場にログインして、星野源さんの「恋」のシングル? ミニアルバム? みたいなのを買いました(ありがとうお兄ちゃん)。全曲シャッフルぐるぐるモードにして今日までずーっと聞いていたのですが、なんというか、4曲じゃやっぱり足りなくない? 足りないよね? ということで今日また兄のアマゾンアカウントで――(他人のアカウントへのログインは規約違反かもしれないし以下自粛。事後承諾は貰っています! いやでも事後承諾じゃないのかな、事前の包括的委任は受けているんだし――とにかくありがとうお兄ちゃん! とブログに書いている男はもうすぐ三〇歳、いやまだしばらくあるからアラサーじゃないよね!)

www.hoshinogen.com

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 したがって、そう、アルバム、今日ダウンロードで買ったのです。にわかファンとか言うレベルではありません。にわか中のにわか、にわかオブにわか、ニワトリ年だけににわか、にわにはにわにわとりがいる。なのにブログにいろいろ書こうとするからすごいよね。なんでだろう。なんかたぶん、少し感動したというか。
 今日という日。今朝は起きてむにゃむにゃしながらツイッターとかのニュースを見ていたら次期アメリカ大統領のトランプさんが報道陣になんかよくわかんないけど質問をさせないとかそういうニュースが出ていて、そのニュースをめぐってジャパンのツイッターなどのソーシャルなネットワーキングでは、やれトランプ最悪だ、やれトランプ最高だと書いてあって、なんとなく気が滅入る朝のはじまりだったのです。僕はどっちかっていえばトランプ最悪チームの末端に属している(属しているのか?)人間で、全然中立的な人間ではないのですが、トランプさんに関するニュースをきちんと追いかけてないし彼の強調するような国内大切にしちゃうし国外に行く企業のことは脅したりしちゃうぞ政策の経済効果云々についても全然よくわかんないのです。だから自分は、特に何かここで意味のあることを述べられる人間ではないように思うのです。
 意味のあること。
 そう、でもなんか、トランプさんやトランプさんの支持者が希求しているのは「意味」であるような気がしているのです。いまどきはポスト産業社会みたいな感じで雑に言うと色んなコミュニティの解体や形骸化が進んでみんなが「意味」を失って意味喪失=アノミーの状態になる時分なのかなと思うのです。なんかアノミーなのはトランプさんの支持者も反対者も同じ感じがして、両者の違いは立ち位置とかアプローチの仕方とか、過ごしてきた「時」の違いなのかなと思う。
 いやそもそも「意味」って何? という話なのだけど、その答えは「人によって違う」とか冴えないものになってしまう、冴えない答えしか用意できないのが今時分の雰囲気で、それが嫌なのがトランプさんとか(の支持者)なのかもしれないという話です。というのも、例えば昔だったら「人生の意味は○○である!」ってみんなで同じものを信じて過ごせていた社会があったのかもしれないのです。そんななかで大きな時流に乗れていれば承認欲求など湧いてくるまでもなく生きる意味でいっぱいの生涯を送れるのであり、死んだ後も誰だって生まれ変わったり天国にいったりするに決まっており、不安もないのです。
 いや、いまだってそういうふうな宗教を信じられるじゃないかって? いやそれは違うのだ。いま特定の宗教を信じて活動してみても、みんなはなかなか「すげえ、○○さんもう××の祈りできるんすか!?」とかにはならなくて、生温かい目で「○○さん宗教信じてるらしいよw」ってなります(少なくとも日本だと)。誰だって(誰だってかはわかんないんだけど大勢はおそらく? たぶん?)みんなお互いにお互いの正しさを承認しあって生きていきたいのであって、もっといえば社会で正しさを共有しあって安心したいのであって、みんな違ってみんないい、とかじゃあ、なかなか満足できないというお話なのです。だから恋人とは価値観が合うのが大事と言われたり、子どもは親の言うこと聞かなきゃいけないと言われたり、会社では共通の目標を持って作業することが大事とか、ナショナリズムとかコスモポリタニズムとか、いろいろ、とにかくいろいろいっぱい、意味を補填するロジックが出てくる。ただ、価値観を共有するのは気持ちいいかもしれないけど、価値観を共有する集団では、価値観を共有できてないひとをどうするか問題っていうのが必ず発生し、それは逸脱者を矯正したり強制したり追放したり殺したりいろいろなんだと思うのですが、まあどうあっても物騒で、でも価値観が生まれてから時が経ち、また共有する人々の数が増えれば増えるほど、否応がなくそういう「信じきれない」は生じるのではないかと思うのです。
 トランプさん、というかトランプさん的なるものに対する肯定的反応と否定的反応というのは、それぞれ、どういった価値観を広めたいと考えているかで分かれるのだと思います。ものすごく大雑把に図式化して考えるとすれば、なんらかのひとつの価値観に依拠して、自分はそれに従っていき、さらに世界にそのようにあってほしい、そのように生きる自分を世界にまっすぐに認めてほしいと思うひとは、トランプさんにわりあい好意的なのではと思う。そして率直なその人々はある面でまったく悪いひとたちではないのだと思う。一方で、トランプさんに否定的に反応しがちなひとは、ある種いくとこまでいった究極的な「みんな違ってみんないい」世界の支持者というか、どんな価値観に対しても一歩引くというメタ的な価値観を支持している人々ということになるかと思うのです。みんなに優しくて結構なことじゃないか、共生が一番! と口で言うのは簡単なのですが、この「みんな違ってみんないい」世界の苦しさというのは、実は自分が信じていたはずの価値観をも、本当の意味では信じられない状態に陥るということです。どんなこともひとつの考え方、誰かにとって正しいこと、になってしまうとしたら、自分が信じていることが正しいという保証もなくなるのではないでしょうか。この辺、うまくブレーキ掛けながら考え込みすぎないでスルーできると強いのですが、うっかり考えすぎると闇堕ちするところです。行き着くところまで行き着くと、自分の考えも確からしくなく、他人の考え方も確からしくない状態、「みんな違ってみんないい」から「誰もよくない、わるくもない、何もわからない」へと変わりかねません。
 この「何もわからない」こそが「意味」がないという状態、アノミーといって差し支えない状態(アノミーという言葉を考えたデュルケームマートンに認めてもらえるかは怪しいのですが)というわけです。ちなみに僕もだいぶ何が何だかわからなくなっておりますので、プチアノミーといって差し支えありません。超ウルトラハイパーアノミーになると人は自殺したりする、とフランス人のデュルケームさんが分析したというのがこの言葉の始まりらしいですが、僕は社会学のことちゃんとわかってないまま適当に書いています。すみません(今後ノ研究課題ニシマス。ちなみにアノミーの頭に勝手に付け加えた「プチ」はフランス語です。ブルボン)。
 何にせよ、トランプさん肯定的チームと否定的チームの戦いは、意味をめぐる戦いなのでは、というお話です(ありきたりだけど)。
 肯定的チームは豊穣な意味を求めて戦いますが、でも大きな集団で豊かな意味をもたらす価値観を適用すれば、そこに含まれることのできない人々を排除する作用が強く出ます。また、科学や通信技術の発達によって、そもそもその「豊かな価値観」のもっともらしさ、それっぽさを維持すること/共有すること自体が難しくなってきていて、あまりにこれに拘ると、ともすれば暴力や強制が広く用いられる危険性もないではないです。
 といっても、否定的チームは下手したら自殺したくなりかねないような、アノミーな状態に陥りかけながら、ぎりぎり手前で踏みとどまり、「意味は~ありそうでないっていうか~ないわけではないんだけど~あるんだけど~でもみんな違うんであって~」みたいな苦しいことを語り続ける感じで、わりと無理ゲーというやつです。無理が出てくるとこちらも暴力や強制の発動が予想されます。違う違うそうじゃなくて、もっと優しく、みんな違ってみんないいってやりたいのに! わかってくれないひととの共生は強制するもんじゃない! でも、わかってもらえず、なあなあになっていくと、暴力に訴えるのだって自由だもんね、みたいに、全部ふりだしに戻るのであり、この辺りは非常に微妙なところです。
 最近はディズニー映画やハリウッド映画にも、この辺りのメタ的価値観に基づく世界を語ろうとするものが散見されます。直近では『ズートピア』や『ファンタスティックビースト』は、もろにそんな感じが致します。トライエヴリシング! これってものはないけど、何でもやってみよう、お互いに思いやりを持とう、世界を動かし続けよう! 『イントゥザウッズ』とかも、ともかく大人は自信がなくとも祈りを込めてストーリーを語り聞かせてゆくのだ、みたいな感じで終わった気がします(2回見たわりには記憶が曖昧ですみません。おもしろいよ!)。

 そんなわけでみんな社会を成り立たせる意味を手さぐりで探しながら必死で、どんな意味を叫んだとしても誰かを傷つけそうで怖い、でも、傷つくひとに文句言うのもお門違いだし、そもそもいまおれたちみんな、意味が足りなくてこんなにも寂しくてやりきれないというのに。あああああああああああ、おかしくなっちゃうよ、世界はそんなふうになっている、そんなふうになっているときに、でも、はじめのほうに書いたみたいに、星野源はばっさり「意味はない」と言うのであった。軽やかに。楽しげに踊ったりしながら。
 世界に意味がないっていうのは「時」に出てくるだけじゃなくて、もう色んな曲にわんさか現れるフレーズなのです。もちろん大ヒットした「恋」でも歌われております。

意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ
ただ腹を空かせて
君の元へ帰るんだ

 ばっさりです。意味はなく、あるのは暮らしだけです。虚しくないのでしょうか。たぶん虚しいのではないかと思います。でも「この世にいる誰も 二人から」生まれてきており、「愛が生まれるのは 一人から」なのであり、こういう「胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの」のことを「いつも思い出して」と歌われてもいます。誰もが二人から生まれ、恋せずにはいられないまま、何かを愛して生きてゆく。え、でも、これは生きる意味なのでは? そうかもしれない。そしてこの歌の最後は「夫婦を越えてゆけ 二人を越えてゆけ 一人を越えてゆけ」です。一人を越えるってどういうことなんだ? 夫婦(制度)や二人(カップル規範)を超えるのはいいけど、一人(何かに恋する自分)を越えて、どこへ行くんだろう?

    とにかくなにか、僕の暮らす場所――つまらないことに悩む世界――を突破して、星野さんが遠くへ行きました。そこはなんとなく意味がなくとも生きていける世界であるような気がします。え、それ、すごいのでは?
 そして「恋」におけるこのすごいことは、「時」で、意味のない時のなかで今を生き死に至るまでを、センチメンタルにならずに歌い切った精神に繋がると思われます。「恋」のシングルに同時に収録されている「continue」は、「命は続く 日々のゲームは続く 君が燃やす想いは 次の何かを照らすんだ」……「足元の ひとつ先の方」と歌います。毎日の生活を「ゲーム」だとして、歌の名前をコンティニューとすることには、生活や暮らしに大きな意味を見出す営みを揶揄するニュアンスがありますが、一方では淡々と、無意味な出来事が、次の無意味な出来事へつながることを指摘します。意味もなく時は続き、自分はどこかでそこから降りる。そして自分が「燃やす想いは 次の何かを照らすんだ」。

    ちなみに前述の通り「恋」では明確に「愛が生まれるのは 一人から」と歌っているのであり、「次の何かを照らす」は、おそらく進化論とか自分の子孫を残そうみたいな話ではないと思われます。どっちかっていうと物理的な現象というか、大きな宇宙のなかで小さな自分が生きたことも、バタフライエフェクト的な、風が吹けば桶屋が儲かる的な展開を見せるんじゃねという雰囲気を感じます。

 こうやって聞いていて思うのは、とにかくこの星野源というひとは、あるがまま死を見据えているということです。意味がないという言葉も死のイメージから生まれているように思われます。死を見据えたうえで、死をノリノリで(どっか笑っていない目をして)明るく歌い飛ばしている。
 無視できないこととして、(わりと周知されている事実な気がしますがともかく)wikipediaによると(ソースがクソですみません)星野源さんは2012年から2013年にかけてくも膜下出血と診断され、活動を休止した事実があるようです。2017年から(数週間前であり、初のアルバム購入は今日である)星野源を聞き始めたクソにわか野郎の僕は活動休止以前の歌をまだきちんと聞いておらず、この入院の経験が、どのくらいこういう星野源の死を見つめる姿勢に関係しているのか、入院前の歌と比べられないし、よくわからないのですが、でもなんか今日買ったアルバムに入っていた「地獄でなぜ悪い」という歌を聞くと、入院してたときの所感なのだろうか、と思ったりもします。安易な考えかもしれない。
 「地獄でなぜ悪い」は冒頭でなんか、どびゃーんとした音(音楽的素養がゼロであることを示す表現)が聞こえてきたあと、元気な感じで進行する曲です。歌詞も最初からぶっこんできたなという感じです。

病室 夜が心をそろそろ蝕む
唸る隣の部屋が 開始の合図だ

 もうどう考えても入院している星野源さん。そして隣のベッドの人とか唸ってるよ。あれ、部屋って言ってるから、個室で隣の部屋のひとの唸り声なのか。ということは唸り声は廊下を伝って聞こえてくるほどの声量なのですか。そんなうきうきした感じで歌うことじゃないよ。
 この歌も軽やかに歌い上げるわりにパワーワードが続きます。

無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちた時から 出口はないんだ

 生まれ落ちた時から我々に出口はないのです。まじかよ。別の箇所では「生まれ落ちた時から 居場所などないさ」と歌います。居場所もありません。じゃあどうやって過ごすのかというと、「いつも夢の中で 痛みから逃げてる あの娘の裸とか 単純な温もりだけを 思いだす」とかそんなふうな入院生活です。でも待って。入院したひとだけがこうなの? どうやら違うらしく、そもそも「作り物だ世界は 目の前を染めて広がる 動けない場所から君を 同じ地獄で待つ」、ということで、我々はみな同じ地獄におります。しかも作り物です。でも世界が自分の吐く「嘘でなにが悪いか」、世界が自分の夢見る「作り物で悪いか」と問い返してくるのもこの歌です。

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

 世界は自分の作り物なので、自分が死んでしまえば、どこまでも広がるはずの世界は消えてしまいます。当たり前っちゃそうなんですけど。いや歴史的には当たり前じゃなかったのかな。死後の世界へのもっともらしい説明のある社会のほうがずっと長く存続していた気がしてきました。

    でも星野源はそういう神話的解決を拒否します。星野源さんの解決は「ただ地獄を進むものが 悲しい記憶に勝つ」とか「動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ」とかです。地獄には出口も居場所もない、でも、そのまま進んで悲しい記憶に勝ち、明日を掴む。
 こうなってくると、嘘でできた作り物の世界というのは、単に自分ひとりで作り出したものではなく、痛みに耐えるために多くの人々がみんなで作った(しかしほんとうはいつ崩れるかわからない)「どこまでも」の感覚なのだということになってきます。「どこまでも」世界が続くとか、そんなのは嘘で作り物で、そんなことしているようでは「悲しい記憶に勝つ」ことはできない。「ただ地獄を進む」「同じ地獄で待つ」といったフレーズは、世界がいつか終わるということ、世界が嘘であること、自分はいつか死ぬということを直視せよというメッセージに思われてきます。
 死を意識してこそはじめて、人間は悲しい記憶に勝って明日を掴んで立つことができるのだ。

    ということでこの歌のメッセージを相当重たく受け取ってしまったのですが、伝えられ方はとてもとても軽やかです。そのギャップは不気味で、魅力的です。とりあえず死を見つめて生きてみてるけど、おれ今、別に平気だよ。そう明るく歌っているように聞こえる。この辺り、僕は「え、まじで? アノミーでも人間って死なないの? いやアノミーじゃないってことなのか? ええええ、なんだこれ」とちょっと驚いてしまうところです。だってむしろアノミーであるからこそ生きていけるって、そんな倒錯したところで星野源は歌うから。
 また、僕の知らないところでドラマの主題歌になってヒットしていたらしい「SUN」は、こういう星野源の「世界って思い込み」というコンセプトを、とにかく明るくポジティブに展開させたものに聞こえます。が、もちろん「SUN」のなかでも死の影はちらつきます。

僕たちはいつか終わるから
踊る いま

 いつも通りの端的でどストレート、なかなか真似できない巧みな言葉選びです。その他、サビの部分の「雲をよけ世界照らすような」とか「澄み渡り世界救うような」とかからは、そもそもこの世界が救われるべきところというか、やばいところ(=地獄)であり、だからこそ君の声を求めるような楽しい幻想をもつことが大事だよね、というメッセージが滲みでてきています。あれ、でも、現実を直視しないといけないんじゃなかったの? そう一瞬思うでしょうか。これはおそらく、世界やいろいろなものが嘘で作り物であるとわかったうえで、作り事であるからこそ、既存のものを妄信せず、楽しい素敵なものに作り変えてゆこう、それは無理ではない、この世界は「すべては思い通り」なのだ、というコンセプトと思われます(「恋」にも似たような、想像力やイメージを通しての世界の作り替えを示唆する歌詞があります)。
 ああ、ちょっと地獄を明るい気持ちで歩く方法が示されてほっとしたような感じがする、といっても、「SUN」では「幻想」だと歌われてしまってもいるので、不安も残ります。
 たぶん、いくら世界が一種の作り物で、思い込みのようなものだとしても、自分の好きなようにできるというのは、やっぱり幻想なのです。「Soul」では、海や夕日、初恋を描写したうえで、以下のように続けます。

言葉に ならない Soul
名もなき 記憶に 見える 見える
道外れ 逸れた者
身体に 刻んだ 時を 越えて

 客観的に続く「時」は身体に刻まれ、記憶に残り、Soulなるものに残るという感じでしょうか。この歌、サビは「おお 此処から おお 世界が おお 此処から おお 心が」と繰り返し歌い、最後は「今でも 此処から いつでも 世界が 今でも 此処から すべては 心が」と展開されます。常に世界は自分を中心に、「いまここ」から受け取って「いまここ」から広がり、心とはその広がりそのもの、そういう感じでしょうか。
 したがって「Soul」では、客観的に続く「時=世界」から「自分=身体」が構築されていく、という、世界から自分が獲得されるイメージを得られます。自分で世界を作ろう、という「SUN」のイメージとは因果関係の矢印が反対方向ですが、あんまり矛盾した感じはしません。「時=世界」と、「今=自分」とが、お互いに影響しあって成立するような世界観(弁証法的というかなんというか、なんか現象学的社会学みたいな)がここでは示されている気がします。

    したがって、世界はわたし/あなたの好き勝手にはできません、でも、世界は確かに我々の働きかけによってできてもいるのだ。
 そして、星野源は楽しそうに歌うという方法で世界に働きかける。あれでも、何か働きかけたいことがあるっていうことは、意味を生み出す特定の価値観を信じられている、ということなのかな。いや違うのか。どうせそのうちに死んでしまうし、意味のある正しい働きかけかどうかなんて知らない、とりあえず自分のやりたいようにやろうということ?    実のところ星野源がやろうとしていることも、みんなで価値観に捉え直すこと自体を積極的に捉えていくというメタ的価値観の再提出で、『ズートピア』的なものの変奏なの?    そんな気もしないでもない。でもなんか、やっぱり絶えず「ひとはいつか死ぬ」「世界は地獄」が付きまとうせいでしっくりこない……。どうせ全部無意味だし今が楽しければいいっていう刹那的な快楽主義? 感覚的なものや気持ちのいいものに溺れようってこと……?
 いよいよ正直これを書いている僕自身わけがわからない、星野源が持つ謎の「越えていく感」に向き合うしかないところに煮詰まってきています。というわけで最後に「Crazy Crazy」を少し見て、このくそ長いにわかブログを終わります。

お早う始めよう
一秒前は死んだ
無常の世界で
やりたいことは何だ

 客観的な「時」のうえに「今」が乗っかるイメージと、絶えず繰り返される死のイメージは、ここにきてついに「おれたちって一秒ごとに死んでるじゃん」みたいになってきました。そうか僕は今もずっと死に続けてるのか。まじか。でもそうかな。え、なんかこわい。

愛しいものは 雲の上さ
意味も闇もない夢を見せて

 ああああ、やりたいことについて聞いてきたくせに、そのやりたいことの基礎にすっごくなりそうな「愛しいもの」を雲の上にあげてしまった……。雲の上って、やっぱり手が届かないものとかもう亡きものになっているというニュアンスですよね……。さらに「自分のやりたいこと(=個人的な小さな意味)に従って世界に働きかけていこうぜ」って方向性で一瞬(僕のなかで)まとまりかけたものがぶち壊しにされるが如く、再度「意味はいらない」系の強調いただきました。ありがとうございます。でもどうやら意味だけでなく闇もないようで。というか違うか。「意味も闇もない夢を見せてほしい」ということは、現状、世界には意味や闇が満ちているのかもしれないですね。そうするとやはり「意味を捉え直せ」ではなく、「意味を棄てよ」というのがもはや星野源の主張のように思えてきます……。

    なんか楽しそうに意味を棄てよと囁いてくるから、嫌なこと忘れて気持ちよく過ごそうぜ、欲望に溺れて好きに生きていこうぜ、的な展開を見せるかと思いきや、次には「欲望を越えろ」が出てきます。

等しいものは 遥か上さ
谷を渡れ 欲望を越えろ

 こんなに楽しそうに歌ってるのに、欲望は越えるもの、ということで、もはやストイックで荘厳な雰囲気すら漂います。やはり好きに楽しく生きようぜとかそういう軟弱な次元ではないようです。
 するともう、意味(=ある種の論理)もなければ、欲望(=感情)もない。
 一切の秩序がないじゃないか!!! どうしたらいいんだよ!!! 頭おかしくなるだろ!!!
 そう思っているとサビでは「頭おかしくなればいいんだよ」と言われてしまう。え、あ、はい。そういえばそんなタイトルの歌でしたね。

Crazy Crazy 可笑しい心踊れ
Crazy 狂って ふざけた場所で逢おうぜ
Crazy Crazy 可笑しい頭揺らせ
Crazy 狂って どうかしてると笑えば
あのただ優しい 歌声はまだ続く

 そして頭おかしくなってふざけて笑い合った先では、「まだあの声がする」「まだあの言葉が」「あのただ優しい 歌声はまだ続く」ということらしい。何だろうこの歌声……わかるようなわからないような……。赤ちゃんの頃に聞いた母親の子守歌みたいなイメージ? とりあえず何らかの祝福が与えられるということだろうか?

    でもそしたらその祝福をベースに意味の体系が構築できてしま……うのか!? そういう意味の構築自体をするなという風に言われている気がする。もうわからない……。こうやって理屈で図式的に捉えるのをやめろと言われている……? おまえがそうやって考えているあいだは、やりたいこともやるべきこともわからないだろう、というような……。
 なんだろうなあ、人生を取り囲む「意味」を棄ててはじめて、か弱い生身の人生が姿を現すとか、そういう感じだろうか。最後の肝心のところが掴みきれないのは、僕自身がまだ意味を諦めきれていないからかなあ。というか音楽的素養がないからか……。
 しかし確かに、意味をめぐる闘争とか眺めていると、もう意味とかどうでもよくない? と思う瞬間がいくらか僕にも訪れてはいる……それは投げやりというより、なぜそんなことに拘るのか、大事なことは他にあるのでは、というような、でも、その大事なことこそが、それぞれにとっての意味のはずで……意味がないと豊かに幸福に生きていけないのであって……? ぐるぐる。
 意味がないのは不安に思えるけど、もしかすると人間は、意味がなくても生きていけるのかもしれない。というか、現に確かに僕は大した意味もなく生きてはいる。意味を求めようとするのをやめて、さらに欲望も越えて、ただ優しく聞こえる歌声に耳を済ませるという道があるのだろうか。みんなが意味意味意味意味いってる時代に、世界は無意味だと高らかに歌い上げてヒットしている星野源は不思議だ。そしてそれは、時代遅れだとかそういうことではないと思われる。むしろ何か重要なものを掬い上げている気がする。

 意味など求めてはならない。意味のことはもう諦めろ。意味を諦めたところで、ひとははじめて優しさを得ることができるのかもしれない――? どうなんだろう?

 というわけで、鳥頭で始まる2017年です。これ本当にアップするのかな。恥ずかしいぞ。最後まで読むひといるのか?(12000字以上もあるよ、やべえ)
 しっかり読んでくれた方も流し読みしてくれた方も、ここまでスクロールバーを動かしてくれたひとはみんな友達です。ありがとうございました。
 本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

※「桜の森」も、明らかに坂口安吾の『桜の森の満開の下』を意識しており、言及したかったのだけど、長くなったしやめました。「夜」で傍にいてくれる星野源の優しさも、最後の意味を捨てよ、と関係してくる気がしましたが、いよいよ自信なくなってきているのでやめました。そもそも僕は音楽のことはよくわからないのにいろいろ書きすぎました。でもとりあえず良い気がするので、深い意味がないという深い意味(いや意味はないのだが)を感じるために、意味と闇の蔓延る現代を突き抜けていくために、みんな星野源、聞いてみてね! ファン歴数週間のにわかファンとの約束だ!

トイックとトイフル: 仔猫の話

エッセイ

    トイックは猫で、トイフルも猫だ。二匹は姉妹で、たぶん同じ母親から生まれた。身体の模様もほとんど同じだから、父親も同じかもしれない(実は猫の母親は、一度に複数の父親の子どもを産むことができるのだ。すごい)。でも正確なことはわからない。二匹は野良猫だったから。 

    野良猫だったから。
    そういうと、いまは野良猫じゃないみたいだ。けれど、どうなんだろう。トイックもトイフルも、もう野良猫ではないんだろうか。ううん。トイックとトイフル、それぞれについて、僕はキーボードを打つ手を止めて考えてしまう。
 
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* * *
 
 
    この前の週末の日曜、2016年5月29日は、第何回目かのTOEIC試験の日だった。TOEIC試験というのは英語を母語としない人々のための外国語力を図るテストで、日本ではビジネスマンや大学生のあいだで広く受験されている。試験時間は長く、二時間とか三時間とか。なんか記憶が曖昧なのは、前回僕が試験を受けたのは、もう、一年以上も前のことだからだ。この日曜日にTOEIC試験を受けたのは僕ではなくて、僕の後輩の男の子だった。彼は大学院を受験するためにTOEIC試験を受けた。彼が受験する予定の大学院では、TOEIC試験の成績でもって英語力を試す、ということになっている。
 午前中の朝早くからTOEIC試験を受験して、昼過ぎになって、彼はたぶん、へとへとに疲れて、思ったよりできたなあとか、全然できなかったなあとか考えながら、大通りか脇道かあぜ道か、神の視点から見ていなかった僕にはわからないけれど、彼はそういう何らかの道を自転車で走り、家に帰る途中だった。
    家に帰ったら一休みして、夕方以降はアルバイトに向かう予定だ。彼はそのバイトをやめて、大学院に入ったあとも続けられるような、研究機関でのバイトを新しく始めようと決めたところだった。いまのアルバイトは、根本的には嫌いではないけれど、給料のわりに忙しいし、直属のマネージャーが昔、彼のことを理不尽に怒ったことがあったようだ。彼は僕ほど根に持たない性格の人間だけれど、理不尽なことというのは本当に理不尽で論理を突き破って人々の世界を破壊するから、きっとそのことは、直接には忘れていたとしても、心のどこかで根を張っていると思う。でもバイトをやめるのは、そのことより、研究機関でのアルバイトの話が現実的な感じになって来たからというのが大きいんだろうと思う。
    長丁場のTOEIC試験の帰り道で、次の予定は、あまり行きたくない感じのアルバイト。
    彼の気分はたぶんそんなにルンルンしていなくて、大学院入試の心配をしながら、「バイト行きたくないなあ」とぼんやりと思っているというような。自転車に乗りながら、過ぎていく周囲の景色はどんなだったろう? 彼の住んでいるところはそんなに都会ではない。ものすごく田舎でもない。
    でもその道は、あまり人通りのないところだったらしい。彼の視界に2匹の猫が紛れ込んだのは、どこか、あまり整備されていない道路のど真ん中であった。ぼくはそう聞いた。
    その二匹の仔猫が、後のトイックとトイフルだ。後輩の彼は道の真ん中で、周囲に親猫がいる気配もないなかで、手のひらサイズの仔猫が、よろよろと動いているのを見た。よく見ると二匹いた。片方はよろよろと動くのに、もう片方はほとんど動く様子がなかった。
    仔猫だ。道の真ん中で危ないなあ。
    そう思ったのか、思わないのか。他人の頭のなかがどうなのかはわからない。とりあえず、彼から聞いたところによれば、彼はすぐにその仔猫二匹を拾わなかった。一度家に帰って、それから、実家で猫を飼ったことがあって、昔、親兄弟が猫を拾ってきたことがあるとか言ってた先輩がいたことを思い出して、意見を聞こうと思った。そのいかにも頭の悪そうな先輩というのが僕だった。
    僕は、その電話を貰ったとき、何をしていたか、たぶん家のなかで、紅茶を淹れて、飲みながら何か本とか読もうとしていた。携帯電話がぶるぶると震えて、誰かからLINEのメッセージでも届いたのかと思って、型遅れのあいほんを取り上げたら、メッセージではなくて、めったにかかってくることのないLINE通話だった。
    もしもし。とか言ったかな。どうだったかな。とにかく僕は電話に出た。猫を見かけてから猫が気にかかってしまっている後輩の子が、家に帰ってから僕に向けてかけた電話に出た(正確に言うと電話ではなくてLINEの通話機能に出た)。彼はけっこう取り乱していたような悩んでいたような淡々としていたような、実際声色だけでその人の感情を読み取ることができるのなんてサイコメトラーくらいではないだろうか、サイコメトラーが実在するのか、わからないけど。
 
    「いま帰り道に仔猫を見つけたんだけど拾うべきだろうか、拾うべきでないだろうか、拾ったらどうしたらいいのだろうか、母親はあまり猫が好きではなくて、たぶんうちに連れて帰ってもきちんと面倒は見てあげられない、でもあのままあの動きの鈍い猫を放っておいたら、猫は死んでしまうんじゃないだろうか。母猫が見当たらなかったけれど、近くにいないものなんだろうか。どうなんだろうか」
 
    そんなような感じのことを彼は話したと思う。たぶんぼくは、「死んでしまうかもしれないし、死んでしまわないかもしれない。無理して拾う必要はないけれど、心配な気持ちはよくわかる。母猫は一般的にはけっこうべったりと仔猫の近くにいるような印象がある。でももしかすると近くにいるのかもしれない。でも弱っているのなら自然界では仔猫を親が見捨ててしまうということもあるんだろう。心配なら拾って病院に連れて行ってもいいのかもしれないけど、お金もかかるし、拾わないでいても僕は拾わないひとを非難しようとは思わない」とか、そういう感じの曖昧な、毒にも薬にもならないようなことを話した気がする。
    ただ、「誰か優しいひとが拾うかもしれないよ」と気休めを言ったら、「あの道を通るひとはほとんどいない。車がたまに通るだけで、そのうちに轢かれてしまうんじゃないか」と言われたことは、よく覚えている。
    そうして、通話が切れて、彼のなかで、どんな心の動きがあったのかわからない。
    衝動的だったのかもしれないし、熟考の末の行動だったのかもしれない。バイトのために家を出る時間まで、もうあと2・3時間しかなかったんじゃないか。それでもとにかく、自転車にのって帰ってきた道を、彼はまた自転車で戻った。
    仔猫を見たポイントまで戻って、また仔猫がいてほしいのか、いないでいてほしいのか――わからないけれど、きっと不安な気持ちでいただろう――、結局はまたそこで同じように道路の真ん中で、無防備に座り込んでいる仔猫のきょうだいを見つけた。辺りに親猫はいなかった。彼は段ボール箱を持っていったらしい、段ボールの底にタオルを敷いていた。頼りない足取りの仔猫と、ほとんど逃げもしない仔猫は、それぞれ簡単に段ボール箱のなかに収容されたようだ。
    散々戸惑って悩んで、思考停止しては慌てふためいて、決断らしい決断があったのか、なかったのか、人間の心の動きはわからない。ただ凪いではいなくて大シケだったんじゃないかと思う。最終的には、彼は二匹の仔猫を拾って、自転車で家に持って帰った。
 
    彼は家で猫を飼えないから、里親を探すつもりだった。けれど暫定的に、元気なほうの仔猫をトイック、元気のないほうの仔猫をトイフルという名前にした。TOEIC試験の帰り道に見つけたからトイック。トイフルのほうは、TOEIC試験とは別の、もうひとつの国際的な英語のテストであるTOEFL試験から名前をとった。TOEFL試験はトフル試験と読むのに、なんでト「イ」フルなの、と僕が聞いたら、彼は「え、トフルって読むの、あれ」と言った。
    トイックはTOEICでいうと何点くらいなのかを聞いたら、「650点」と彼は言った。TOEIC試験は、990点満点の試験で、650点くらい採れれば、履歴書に書いてみるのもいいかもしれない。そういう試験だ。
 
 
* * *
 
 
    家に持って帰ってうちで飼うことになってよかったね。
    そんなふうにはならない。だって彼は実家住まいなのであり、母親は猫が苦手なのである。弱っている仔猫を二匹も持って帰った彼は、母親からものすごく怒られて、どうするつもりなのか、元の場所に戻してきなさい、とにかくうちのなかに入れませんから、そう言われて、壁にいきなりぶち当たった。「のび太の母状態」と彼は後になってから僕に話した。
    日曜日であって家には母親の他に父親も妹もいたのだけど、母の怒るなかで皆なにをどうすることもできない(母は強し)。しかももうあと少しでバイトの始まる時間で、シフトに穴を開けるわけにもいかない。どうしたらいいかわからないまま、彼は段ボール箱に猫を入れたまま、一戸建ての家の庭に、猫二匹の入った段ボールを置いて、段ボールのなかには、とりあえず水とカリカリを入れて、バイトに出掛けた。
    帰ってくるのはもう夜中になってしまう。バイトが終わってからも二匹は元気だろうか。仔猫を拾うべきじゃなかったんだろうか。バイトをドタキャンして休むべきだったんだろうか。きっといろいろ悩みながら心ここにあらず、けれど、ルーチンワークで身体化されているバイトが始まってしまえば、身体は動くし、二匹の仔猫について、現実感が薄れる瞬間もある。
    そんなかんじだったのかなあ。僕は想像して勝手なことを書いている。
    そのときの僕はといえば、「拾っちゃったけど、家に入れてくれない」と連絡を受けて、でも僕の住んでいるところもペット禁止だし、でもその弱った仔猫たちも、庭にいるよりは、ペット禁止のところでも屋根があるところに来れたほうがいいのかな、でもそれは、契約違反だしよくないことなんだろうな、というかそもそも、彼の住んでいるところと僕の住んでいるところはけっこうな距離があるわけで、簡単に受け取りに行くことも、世話するための労働力の提供を申し出ることもかなわず、しかも次の日は月曜日、お仕事だ。自分の無力感を噛み締めていた。つまり、拾うことと、拾わないことについて思いを巡らせていたのは、僕のほうだったのかもしれない。
    動物を助けようとするとなんだかよくわからないけれど世間や常識と闘わなくてはならなくなったりする。
   「そんなことよりほかにすることがあるんじゃないの、結局自分がそうしたいだけでしょ、偽善者が、動物かわいいとかそういう気持ちを押し付けるのやめてもらえますか?」いろいろ、言い分はある。その言い分の一部分は真っ当で正しいものだと思う。けれど彼の視界にはトイックとトイフルが現れたのだったし、いま僕の実家にいる二匹のおとなの猫も、母と兄の視界に現れて、本当にみんななんの計画も用意もなく、ぼくたちの人生に加わって来たのだった。
    一目ぼれした相手や、古本屋で何となく買った本や、ふとしたときに吸い込む夜の空気のようだと思う。顔にぶつかってくる羽虫や、うっかり潰してシミになってしまったニキビや、いくつか受けて一つだけ合格した進学先・バイト先のようだと思う。
    トイックとトイフルはそうやって彼に拾われては、段ボールのなかで夜を明かす。
    バイトから帰って来た彼に、きっと上から心配そうに覗きこまれたことだろう。新型のあいほんで天気予報をみて雨の予報で、それでも家に入れさせてもらえなくてどうにか頼んで、二匹は軒下に運ばれて寒い夜に、雨に降られてびしょぬれにならずに済んだだろう。そしてでもそれがなぜなのか、いま自分たちに何が起きてるかぜんぜんわからないまま、箱のなかにいただろう。
    お母さんはどこにいったんだろうって、いつから二匹はそう思っていたのか、そんなこと思ってもいないのか、仔猫だから、どのくらい何を考えていたのか。それは後輩の彼がどう考え、何をしたのかを想像するより、ずっと難しい。
人間が助けたほうが猫が幸せかどうかなんて、わからない。
    確かに。世間からの声に同意しながら、でも、この夜、トイックとトイフルが雨に濡れて、凍えずに済んでよかった。凍えずに済んだことを、僕はよかったのだと思う。
 
 
* * *
 
 
  「動物病院に連れて行ったほうがいいと思う」と、拾ってしまったと聞いた段階から、僕は後輩の彼に、いちおうアドバイスしていた。アドバイス。自分で連れて行かずに、「連れて行ったほうがいいよ」「そうするべき!」っていうだけなんて、そんな簡単なことはない。僕は自分を戒めなければならない(ひとが誰かの/何かの面倒を見るのが、とても面倒で大変ということは、疑いない)。
    けれど月曜の朝、事態はそれほど深刻には思われなかった。彼は猫を病院に連れて行こうと思うと僕に連絡してきたし、実際に病院に行った。彼が昨夜バイト先で猫の写真を少し同僚に見せたところ、引き取りたいというひとが何人かいたという。それは明るい兆しに思えた。
    僕はあいほんに届いているメッセージを、昼休みに開ける。「健康で、怪我はなくて、ただ栄養失調だろうって。とりあえずノミを取る薬をつけてもらって、回虫を取る薬をつけてもらった。家だと母親が本当に怒ったままだから、仔猫二匹は、小さい頃からよく知っている元大学教授のおじさんの家で、とりあえず十日間だけ置いてもらうことにした」 
    ほら、ノミも取れて、里親も見つかりそうで、屋根のある家も見つかって、万事がうまくいきそうだ。遠くの場所から見ている僕にはそう思えた。僕は、落ち着いたなら、と思って、研究報告の準備とアルバイトと仔猫問題で頭を抱えている後輩の彼に、火曜日にお仕事を休んで、仔猫の様子を見に行っても良いかどうか尋ねた。手伝えることがあったらいいし、何より、誰かに貰われてゆく前に、トイックとトイフルの姿を一目見ておきたいと思った。それはエゴ以外の何物でもなく、しかし僕が仔猫一般のことを大切に思うのは、およそ何かを大切に思うのは、こうしたエゴから来る気持ちなのだという気もする。
    親切な後輩は、勉強の時間を削って、僕をその知り合いの老先生のところに案内すると言ってくれた。嬉しい気分で、僕は仔猫へのお土産に、食べものやトイレ砂はもう買ったらしいし、爪とぎとか猫じゃらしを持っていこうと思って、仕事終わりに、近所のスーパーのペット用品のコーナーをめぐったりした。爪とぎはあって、猫じゃらしは見つからなかった。あーあ。せっかく仔猫と遊べる機会なのに残念だな。代わりに新聞紙を持って行って遊んであげようかな。僕の意識の流れはそういう浅薄なもので、綿密な描写に値しない。描写しないのも保身かもしれない。
    自分の勉強時間を切り詰めながら、頼れる人をぎりぎりまで頼って、仔猫の居場所を確保し、できるだけのことをしようとした彼の苦労を、このときの僕はまだ十分に想像できていなかった。いまもできていないかもしれないが。
 
 
* * *
 
 
    そして次の日は朝早く起きて、僕はバイト先には、急用ができたと連絡して(まあ急用ではある。確かに。仔猫の成長は早い)午前半休を申し出た。仔猫を匿ってくれている老先生の家までは、電車で一時間、バスで30分近くかかる。なかなか遠い。
    電車を降りてから後輩の彼と合流し、バスに乗った。行く途中で、彼から、老先生は病気をきっかけに小脳に少し後遺症が残ってしまっていることを知らされた。いまは呂律のまわりがあまりよくないから、話すときはよく耳を澄ませること、平衡感覚もあまりよくないから、ゆっくりと動いているけれど、老先生はそれでも自分でいろいろできるから、あまり心配しすぎないこと、それから、ちょっと変わり者だということ、などなど。
   雨は上がり、太陽が出て、蝶々がふわふわ飛んでいる。 
    ぽかぽかとした陽気だった。老先生の家は、綺麗な一軒家の立ち並ぶ住宅街の一画にある。二階建てで、老先生はそこに一人で住んでいるようだ。老先生は、確かにふらついているし呂律のまわりが悪くはあるし、それでも何でも自分のことは自分でできる、そして変わり者だった。僕は挨拶して、自己紹介する。先生は僕が大学で法学の勉強をしていたということを知ると(そう、実は僕は法学の学位をもっている)、それはそれは、と、いろいろ、時事にちなんだ話など、裁判ってなんでああなの、行政って、というような、日頃の疑問点について答えてもらえないかと、話をふってくださった。先生の感じている疑問は基本的にもっともであったし、僕が答えられるものなのか、そこは大分怪しかったけれど、でも何を話したらいいかわからないまま、だんまりで時間が過ぎる、ということもなく、とても助かった。
    仔猫二匹は段ボール箱に入っていた。
    段ボールのなかで、二匹の仔猫は眠っていた。トイックとトイフルだ。ここに来て僕は、はじめてこの仔猫二匹につけられた暫定的な名前を知った。指でつんつんしたらすぐに目を覚まして、段ボールから這い出てきて、老先生宅を探索し始める。こっちがトイック。少し突いても目を覚まさず、身体が細く、小さく、ずっと眠ったままでいる。こっちがトイフル。トイフルは前の晩にはもう少し元気があったそうなのだけど、僕が訪ねていった朝にはもう、うまく自分で体を起こすことができないようだった。食事もあまり食べられないようだ。
    やんちゃなトイックと病弱なトイフルは、まだ幼くて、手間がかかる。老先生は一人で自分のことがかなりできるといえど、他人の(というか仔猫の)ケアまでしろというのは、なかなかに酷である。一人暮らしの老先生に世話をしろというのは土台無茶な話であって、トイックとトイフルのお尻には糞がいくらか付いたままだったし、まだ猫砂で用を足すことに慣れていないせいで、あちこち歩き回るトイックがしたうんこが、変なところで乾いて落ちていたりもした(むしろこんな状態になっても預かってくれている老先生の懐の広さには敬服する)。
    僕はとりあえずトイックのお尻についている糞を拭って、落ちているうんこと、段ボール箱についているうんこを捨てた。それから眠っているトイフルを日向において、身体を温めさせる。様子を見る。
    歩き回るトイックと新聞紙を丸めたもので少し遊んでみて、膝にのせて撫でてみる。手のひらサイズのトイックは、ふわふわだ。けれどトイフルよりトイックのほうが明らかに暖かく、トイフルの低めの体温には、不安を感じる。何か食べさせなければ、そう思うものの、眠っているところに何か食べさせても、息を詰まらせるだろうか。一緒に生まれたトイックはもう、独力でドライフードをかみ砕いて食べているというのに。
    日向においてしばらくすると、トイフルは目を開けた。骨が折れているわけではないのだろうけれど、腰砕けになっている。前日の「病気ではないけど、栄養失調らしい」という報告を「じゃあ、ご飯食べさせれば治るんだ」と軽く考えていた自分に腹が立った。
    仔猫には本来、1日に5~6回、高カロリー食を与えるのが望ましい。けれど老先生にそれを頼むのは不可能であるし、後輩の彼も、研究報告が差し迫っていて、日に何度も老先生の家を訪ねるなんてできない。ケアの担い手が全く足りていない。
    トイフルを持ちあげて膝に載せてみる。しばらく膝の上に載せているうちに、元気が出てきた。僕の膝の居心地が悪いのか、トイフルは「ぎゃあ」と「みゃあ」の、中間のような声で鳴いて、身をよじらせては膝から逃げようとする。嫌がられている(気がする)のに、少し元気な様子に、むしろ嬉しくなってしまう。
    猫用ミルクを飲ませてみよう。
    そう思って、さすがにスポイトはないだろうから、「ストローとか、あったりしないでしょうか?」と老先生に聞いてみたところ、「ストローはないけど、スポイトはある」と言われて、え、と思った。いや、そのほうがいいのだけど。
    そして出てきたのはスポイトというより注射器のような、水分を少しずつ垂らせる類の道具だった。ミルクをあげるのになかなかちょうど良い。注射器(?)で猫用ミルクを吸い上げて、トイフルの口に近付けて、ミルクを飲まそうとした。でもトイフルは自分からは、猫用ミルクを飲もうとしない。
    こうなればしかたない。
    僕は後輩の子に注射器(?)を持っていてもらい、トイフルの口をぐいっと引っ張って半ば無理矢理こじ開けて、そこにミルクを流し込んだ。ごくんと喉が動き、トイフルがミルクを飲み込むのがわかる。まだ飲み込む力は残っている。トイフルはまだ飲み食いができるのだ。
    僕は、自分で立てないトイフルを見たときに、もしかするともうトイフルはだめなのだろうか、と思った。思ったけど、ミルクを飲んでくれたときには、まだ何か、こうやって口に入れてあげて、ものが呑みこめるのなら、この子は大丈夫なのかもしれない、と思った。やっぱり栄養が足りていないのではないか。十分にご飯をあげれば、トイフルはまだ元気になれるのではないか。 
    できるだけミルクを飲ませて、お尻から出てくるトイフルの糞がズボンについて拭いたりしつつ、僕らは眠たくなってきた様子のトイフルを、再び日向の暖かいところで寝かせた。
    結局、午前半休だけのつもりが、午後も休んで全休にして、トイフルに、また午後になってから、ミルクを飲ませることにした。
    全休になるのはいいけど、ただ、問題はその後なのだ。
    午前中からお邪魔して、いつまでも老先生の家に居座り続けているわけにもいかない。午後すぎに僕らはまた同じ要領でトイフルにミルクを飲ませ、後輩の子は湯たんぽを温めてトイフルの寝床の下に敷く。先生からカイロももらって、夜中に箱が寒くならないように脇に貼っておく。
    けれどこれでもう、この日にトイフルにできることは、終わりなのだ。これでどうにか、トイフルには次の日まで命を繋げてもらわなければいけない。
    でも、つながったとしても、トイフルを回復させていくには、一日に最低4回は、高カロリーの仔猫用の離乳食のようなものを食べさせる必要がある、と思った。僕はトイフルを自分の住んでいる部屋に連れて帰ろうか悩んだけれど、部屋はペット不可だし、そもそも片道一時間半近くかかるような移動の負担を、トイフルに課してよいものか、わからなかった。後輩の彼に相談すると、彼としては、移動の負担のほうが心配で、もし看取るにしても、この辺りのほうが埋める場所もあるし責任が果たせるようにも感じる、と言った。
    老先生は、もうわりとトイフルのことを諦めていて、その猫はもう毛並みからしてな、まあ、なるようにしかならないから、こういうのは、という意見だった。広い広い視野で見て、それは、一理ある。一理どころでなく、ほぼ真理である。けれど、できる限りのことができるよう尽力することだって、「なるようになる」の「なるように」に含まれるんじゃないだろうか。僕はトイフルが膝のうえで「みゃあ」と「ぎゃあ」のあいだの声で鳴いたことと、ミルクを飲んでから日向ぼっこしているときに数回独力で寝返りを打ったことが、帰りの車のなかでも、頭を離れなかった(なんと、帰りはバスでなく、自家用車だった。老先生が運転してくれた。老先生は平衡感覚に不安があれど、座っている分には問題ないので、実はばっちり運転できるのである。すごい)。
 
 その日の夜、僕はトイフルの糞で汚れたユニクロのズボンを洗いながら、兄に電話していつといつが暇かどうかとかどういう手伝いが期待できそうとかを聞いて、母に電話して、お世話になっている先輩にも電話して、誰かが、どうにかトイフルに日に何度か食事を与えてくれるのに協力してもらえないか、聞いて回ってみた。僕が毎日行くことも考えたけれど、非正規といえ、毎日仕事をズル休みするわけにもいかない(と思うけれど、どうなのか、正直まだわからない。もしかしたら猫の命のためだったら、当然休むべきなんじゃないか? そんなふうに思う瞬間もある)。
 里親候補たちはどうなったのか。
    後輩の子にも話を聞くと、どうやら里親候補たちは、最初かわいいね、と言って、飼いたーい、というような話にとりあえずは進むのだけど、その後、各自が家で親兄妹同居人各種に相談すると、必ず誰かに反対されて、「やっぱり無理だったー」と彼に連絡してくるのだそうだ。
    確かに、仔猫を貰って育てればその後15年から20年近く生きると考えるべきだし、できる限り、責任を持って仔猫を引き受けるべきだ。でも、僕は翻って自分の人生や、実家にいる猫たち(死にそうなところを拾われた2匹)のことを思うと、そんな覚悟を持った引き受け行為が、一体いつあったのか、そんな覚悟もなく引き取ってしまったわりに、当たり前のように生活の内側にあの猫たちが溶け込んで、もう引きはがすことなんてできなくなっているという事実を、不思議に思う。
 なんだか長く動物を飼ううえで必要なのは、もしかしたら覚悟や責任ではなくて、まあざっくりいえば愛情、あるいはそれに類するものなのかもしれない。もしかしたら動物を飼う以外も、継続的に何かをするのに必要なのは、そういうものなのかもしれない。
   「実は若いカップルが里親候補にまだ残ってる」と後輩の彼は話した。「でも、この二人で、本当に大丈夫なのか悩んでいる、けれど自分が老先生の家に置いているのも、決していい環境ではない、こうやって悩んでいる暇も余裕も、実際には、いまの自分にはなく、研究の報告発表のための用意がもうほんとうに間に合わない。どうしたらいいのかわからない。この数十時間の間に猫を拾ったことをすごく後悔してもう誰でもいいからさっさとあげてしまいたいと思った数時間もあったのだけど、いまはまたわからなくなっている。老先生にご飯をあげてもらうようお願いすることはどうにもできそうにない。このままではトイフルは死んでしまうのではないか」
 
 電話したら、「うん、そういうことならじゃあ預かって、日に何回かご飯あげてもいいよ」そうやって二つ返事で引き受けてくれる先輩が見つかったのが、僕がトイフルと会った日の、23時を過ぎた頃だった。すみません、とつぜんに図々しいお願いをして、と言ったら、先輩は、いやいや、いいって言われたときは、素直に頼っていいんだよ、と言った。その先輩なら老先生の家と近いところに住んでいるし、過去に猫を飼っていたこともあるし、トイフルのことを安心して預けることができる。僕も土日には手伝いに行くし、後輩の彼も、可能な限りはトイフルの様子を見に行ってくれるだろう。
    もう明日、先輩のところに持っていこう。後輩である彼にも伝えて、話がいちおうまとまった、その矢先であった。でも、考えてみればそんな話がまとまった夜更けの23時頃にはもう、トイフルの体力は限界を通り越していたかもしれない。もうずっと優に限界を超えて、頑張っていたんじゃないかという気がする。
 
 トイフルが亡くなって、冷たくなってしまったことを確認したのは、トイフルを拾った彼自身だ。彼が次の日の早朝に、老先生の家までトイックとトイフルの様子を見に行ったときにはもう、トイフルの身体は冷たかったようだ。僕は朝が弱いのに、珍しく六時半とかに起きていて、後輩からの知らせを、すぐ受け取ることができた。
  「冷たくなってた」
    そっか。だめだったか。
    でもトイフル、おまえは頑張った猫だ。
    そして後輩よ、きみもほんとうに忙しいなかで頑張った、ものすごい人間だ。
 僕はトイックとトイフルを拾ったと聞いたばかりのとき、もっと早い段階で、先輩に預かってもらえないか聞くことができたのでは、とか、老先生の家に訪ねたときに、そのままトイフルだけでも持ち帰ってご飯をやるべきだったのでは、とか、いろいろ、他にああすればよかったこうすればよかったという事実が、思い返せばある。あるけれど、あるな、と、それは、やれることがあったな、と思ったということで、激しく後悔する気持ちにはならなかった。いまからどう考えてみたところでトイフルはもはや死んでしまっている。後悔はパフォーマンスにしかならない気がする。もちろん考えてしまうけど。知らせを受け取ったときには、やっぱりもう限界だったか、という、彼は平気だろうか、という、頑張ってたのに、という、そういう感じに考えた。でも大シケではなく、凪いでいた。
    どうせ死んじゃうなら、拾わなければよかっただろうか。中途半端に生かされて、却って辛い思いをしただろうか。そんなことはわからない。わからないし、トイックとトイフルと出会ってしまって、やろうと思っていた予定がうまくこなせなくなって、借りられる周囲の助けも僅かであるなかで、トイックとトイフルを夜中の雨から守り、トイックとトイフルに安全な日向で身体を伸ばして寝返りを打つ幸せを授けた後輩の彼に対して、そういう物言いをするひとを、僕はあまり、よく思わないと思う。きっとTOEIC試験の帰り道にトイックとトイフルを見つけたのが僕だったなら、拾わなかった、想像を都合のいい方向に働かせて、社会の常識を適当に持ち出して、母猫に見限られた二匹をそのまま二重に見限ったのではないかと思う。気付いたことに気付かないふりをしたと思う。だって社会はそうやって回っているじゃないか? でも違うかもしれない。だって現に、彼はトイックとトイフルに出会い、迷いながら二匹を持ち帰った。気付かないふりをしなかったのだから。現に社会はこうやって回っているんじゃないか?
    僕は拾えない人間だ。けれど、せめて拾う人間を誇りに思い、称えたい。責任感とか甲斐性とか、そういうものとは違う、愛情というか、目の前で起きたことを豊かな感受性で受け止め、受け止めた感覚に、誠実であろうとする、そういうひとに、あるいは日向で身体を伸ばし、目を細め、お腹がすいたらにゃあと鳴く、苦しいなかでもミルクを飲める生き物に、敬意を表して手助けしたい。そのくらいはしたい。
    トイフルも彼もよくがんばったし、偉かったのだ、僕はとにかく電話口で、LINEのメッセージで、彼にそう伝える。昨日の午前中に、昼間に、膝に乗せたトイフルが大きな声をあげたこと、お前の膝なんて嫌だと言ってくれたこと、後悔ではなく、とにかくトイフルのした一挙手一投足を思い出して泣きたくなったのは、コンタクトレンズを付けた後だった。だから涙はレンズの内側に少し溜まるだけで、僕は涙を流さないで済んだ。がんばってほしかった、でも、じゅうぶんよくがんばった、できることはあっただろうけど、できるだけのことをやった、「なるように」のうちである彼らは、いい流れを呼ぶべく、最善を尽くしたと思う。
 
 
* * *
 
 
    トイックは健康で、元気である。
    いまも老先生の広い家のなかを縦横無尽に歩き回っているか、どこか本棚に入り込んで、足を折りたたんで眠っているかもしれない。里親はまだ決まっていない。だからトイックはまだ野良猫かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 
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    トイフルは偉い猫だったが、トイックだって偉い猫だ。母猫のいなくなったところで、トイックはずっとトイフルから離れずにいた。寝ているトイフルを気付かず踏みつけたりもしていたけれど、身体の安定しないトイフルのために、枕やクッションになってやってもいた。
    トイックはトイフルと一番長く一緒にいた。とりあえずまた週末に、僕はトイックに会いに出かけようと思う。トイックを幸せにしてあげなければいけない気がする。
    これから全てが、どういうふうになっていくかわからないけど、世界はいろいろな感情や覚悟を巻き込んで、なるようになっていくのだろう。僕はトイックが幸せになるように、できるだけのことをしてやらないとと思っている。
    本当はすごく飼いたい、と彼からのメッセージが届く。僕もトイックは、本当は君が飼うべき猫だ、と、そう思うのだった。
 
 
※その後の話
不動産屋さんに質問したところ、ペット不可だと思っていた自分の部屋が、実は敷金1ヶ月分足せば猫飼ってもオーケーになることが判明。我が家にトイックさんを迎え入れました。後輩くんはトイックさんを見にたまに遊びにきます。トイックさんは今日も元気です。
トイックさんの日々はツイッターにて!
(@koro_hiyoshi)
 

ひよこシステム

小説

  • 400字詰原稿用紙換算20枚程度

 息子のキヨシはもう寝るところだ。布団から頭だけ出して、目はとろんとしている。父親であるおれは、畳に敷かれた布団の隅に膝をついて、キヨシの頭を撫でる。布団サイドストーリーを物語る準備をする。 

  キヨシを寝かしつけるのはいつも律ちゃんの役目だが、今日は夕飯のときにキヨシから「お父さんって、寝る前におはなしをするあれ、できないんでしょ?」と挑発され、おれがやらないわけにはいかなくなった。 

「お父さんだってできるさ。お父さんが小学生のときに考えた、最強のお話をこれから聞かしてやる」

「ほんと?」

「ああ」

 何年生だったか小学生の頃に、自主学習ノートを毎日1ページ書いてくるという宿題があった。テーマは自由で、なんでもいいからなにか調べて書かなければいけない。そんなこと毎日やってられない。おれは何も調べたくなくて、てきとうに物語を書いて提出していた。 

  物語には花丸がついた。当時はおれって天才って思ったが、いま思えば、先生も物語なんてあがってきてどうしていいかよくわかんないから、とりあえず花丸をつけたんだろうな。おれはいま、そのときに作った物語の筋を思い出しているところである。

  あんまりよく覚えてない。でもキヨシの期待には応えたい。おれはたどたどしく物語る。

「主人公はひよこだ。かわいいひよこで、ひよこだけど翼を手みたいに使って、物を運んだりできる。ひよこは甘いものが好きで特にケーキが大好きだ。でもある日、ひよこがうちに帰ってくると、楽しみにしてたケーキがない。机の上に置いといたはずなのに。ひよこは慌ててきょろきょろと辺りを見回す。そうすると、窓からケーキの箱をもって出ていこうとする泥棒がいるじゃないか。おれのケーキ! 泥棒なんて怖いやつかもしれないし、危ないけど、考えなしにひよこは走って泥棒を追いかける。ケーキが好きだから。ここから、泥棒とひよこのデッドチェイス。とにかく白熱する。途中で泥棒が下水道に逃げ込んだりするし、後を追って降りた下水道には、野生化したワニがいたりする。でも最後は勇気とか智恵でひよこは絶体絶命を乗り切って、泥棒の背中めがけてひよこキック! 決まったぜ! ひよこはケーキを取り返しす。そんで家に帰ってケーキの箱を開ける、そうすると、ええっと」

 なんだっけ。

「ひよこはケーキ食べれたの?」

「いや、どうだったかな。無事においしいケーキを食べれた気もするし、箱を開けるとケーキは崩れちゃってて、がっかり、あららーって話だった気もするし」

「どっち?」

「どっちだったかな? 忘れちゃったな」

「おとなって、肝心のとこを忘れる」

「そうかー? そうかもな?」

 我ながら締まりのない話だけど、だからこそなのか、睡眠導入にはぴったりのようで、いつのまにかキヨシは瞼を閉じていた。もう寝ているかもしれない。

 「おやすみ」と声をかけると、かろうじて「おやすみ」と返事があった。


 小学生になったからひとりで寝る。そう宣言したのは他でもないキヨシ本人だ。けれど、キヨシはまだ寝る前にこうやって、誰かに付いていてもらえないと眠れない。忍び足でキヨシのもとを離れ、そっと引き戸を閉めて、リビングに戻る。

「キヨシ寝たぞー」

 キヨシのお母さんでおれのお嫁さんの律ちゃんは、冷蔵庫から缶ビールを取り出して「おつかれー、ありがとー、ほいビール」と手渡してくれる。

律ちゃんは自分の分のビールも取り出し、ぷしゅっとプルタブをあげる。おれもぷしゅっ。乾杯!

  アルミ缶同士だからぶつけあってもチーンっていわない。それでも一日の終わりの一口目は、全身に染み入る。旨い!

「くー、これこれ、これがあれば、嫌なことも忘れられるよなー」

「へ? なに? なんか嫌なことあったの?」

 ビール片手に二人並んでソファに座っていた。おれの言葉に、聞き捨てならんと、律ちゃんは体育座りで90度回転して、おれのほうに向き合ってくれる。

「え、あー、うん、なんだっけ。あれ、まじで忘れちゃったな、ビール飲んだら。今日ちょっと落ち込んだ気がするんだけどな」

「ほんと?」

「あ、うん。ほら、キヨシの寝顔もかわいいしなあ」

 心配かけたくないとかでなく、おれはほんとに忘れていた。おれはけっこうほんとに忘れる。律ちゃんもそれを知っているから、それほど気に留めず、ちょっと赤くなった顔で、にやりと笑った。

「ビールが先か、嫌なことが先か」

「へ?」

「嫌なことがあるからビールを飲むのか、うまいビールを飲むために、嫌なことにも取り組もうとするのか」

「なにそれ。哲学的じゃん」

 思わず笑うと、律ちゃんも得意げに「へへへ」と笑った。

「こないだ満月だったしね」

「そっか、満月かあ」それって関係ある? と思うけど、なんかある気もするし、おれは「なら仕方ねえな」と、消えかかったビールの泡を舐める。夜はゆっくりと更けていく。

 次の日の朝ご飯は目玉焼きで、ハムも下敷きで、しいていうならハムエッグ。ワンプレートには千切ったレタス、トースターで焼いた食パンも載せてある。

「うさぎのエサー!」

 レタスを指でつまみながら、真新しいランドセルを傍らに置いて、キヨシが叫ぶ。

「エサって何よー」

  律ちゃんはそう言って怒るけど、キヨシには意味がわかんないだろう。小学校ではうさぎを飼っているらしく、キヨシはいま、うさぎにすごくハマっている。そうであるがゆえにキヨシのなかでは、アフリカの子どもよりうさぎのほうが大事って感じになっており、うさぎのエサというものも、さながら聖体みたいな扱い。うさぎのエサとは言ったって、「あらまあ朝からこんなすごいもの食べられてラッキー」、それくらいのニュアンスなんじゃ? 

「ねえどう思う?」律ちゃんはおれに訊いてくる。「キヨシさー、葉物の野菜をぜんぶ同じだと思ってんのよね。レタスとキャベツの区別ができてないのよ。学校でうさぎのエサにしてるのって、わたしぜったいキャベツだと思うのよね。うさぎの栄養のこと考えてもさあ……」

 キヨシと律ちゃんのやり取りに関するおれの心配は的外れで、うさぎの栄養に関する律ちゃんの講義は、右から左に抜けていく。覚えが悪く忘れっぽい。おれの頭はひよこシステム。



 でもひよこシステムは上司には不評だ。社会人ならもっと責任を持って、割り当てられた仕事をこなすべきらしい。出社して早々、おれは上司から大目玉を食らう。

  仕事を請け負ったのは営業の人たちで、実際に作業するのはおれたちエンジニア、そしたら仕事の仕組み上、できないことをやるって感じになるときもあるし、でも、できないことはどうあってもやっぱりできないし、どうしようもないこともあると思う。上司には「あー、はい、スミマセン」って言っとくけれど。

  いちおう指先の感覚がなくなって頭がぼーっとしてくるくらいはおれたちみんな頑張ったよ。ま、上司が怒るのも立場上しかたないけど。

  こんななかでやっていくために、おれは自分のひよこシステムってけっこう必要だと思う。けど、肝心なところまで忘れちゃう問題については、昨晩キヨシにも怒られたしなあ。忘れちゃいけない肝心なところと、忘れたほうがいい肝心でないところを、分けなきゃいけないのかな。でもそれって、どうやって決めるんだろう。

  働くのはお金のためで、お金は生活のためで、生活は働くためで。ビールが先か、嫌なことが先か。たまごが先か、にわとりが先か。

   あれ、ひよこは?

 そうだ、帰りにケーキを買おう。

 おれは、おれの最強のひよこの話のオチを、どうにか思い出せないものか、考え始める。そうしながら、なんかまだ怒っている上司の言葉を聞き流している。思い出しながら忘れる。双方向性ひよこシステム。ソースコードは進化している。


 でも、おれときたらまた忘れちゃって、ケーキを買っていないことに、帰りの電車のなかで気が付いた。車両の扉が閉まっていく。しまった。もう駅ビルのおいしいケーキ屋さんまで戻ることはできない(というか、戻れるけど、すごくめんどくさいのだ)。

  最寄りの駅から自宅マンションまでにあるケーキスポットは、あとはもうコンビニだけ。コンビニじゃだめだ意味ないんだよ。最強のひよこの話に出てきたケーキはコンビニケーキじゃない。

  こりゃだめだ残念また明日。頭のなかに鳴り響くゴングの音は、試合の始まりじゃなくて終わり。燃え尽きたおれは電車の空いているところに座る。朝の電車はあんなにぐちゃ混みなのに、帰りの夕方の電車では座れることも多い。これって、その分残業してる人が多いから? だとしたらなんかやべえなあ。

  一駅過ぎて、ぴんぽーんぴんぽーんと扉の開閉音が鳴る。乗り降りの少ない駅だから誰も動かず、スカで終わるかと思いきや、カツカツカツカツってヒールが折れるんじゃないかと心配になる足音で、女の人が駆け込み乗車をしてくる。

女の人は美人で知的なお姉さんで、はあ、はあ、と肩で息をして、ふー、とまた息を整えてから、おれの隣の座席に腰を下ろした。

  ラッキー! って、なにもラッキーということはないけど。

  美人のお姉さんは右手に持っていた高そうなハンドバックを膝の上に置いて、左手に持っていた紙袋を足元に置く。

  よく見るとその紙袋は、おれが買うはずだった駅ビルチェーン店のケーキ屋のものだった。ケーキだ。いいなあ。でも中身は違うのかな。紙袋だけとっといて使ってんのかな。

  美人のお姉さんはハンドバックからkindle paperwhiteを取り出し、お洒落に洋書を読みだした。その隙に未練がましく、おれは紙袋を覗く。ケーキ屋の紙袋にはきちんとケーキ屋の紙箱が入っていた。ケーキと一緒に高そうな財布も、ごろんと入っている。これは不用心。ケーキを買ったときバックにしまうのがめんどくさかったのかな。けっこうものぐさなのかな。

  おれは失礼に当たらないように、眼と首を微妙に動かすだけで紙袋を覗いていたはずだ。それなのに、ぬうっとケーキの紙箱と財布のうえに、人影が被さった。

  視線をあげると、ニット帽を被ってサングラスをかけた男が、吊革に体重を預けて、お姉さんの紙袋を覗いている。めっちゃ怪しい。

  ぴんぽーんぴんぽーん。

  また扉の開閉をめぐる間抜けな音、今度もあまり乗降はない。怪しい男が動いたのは、扉の閉まる直前だった。サッと手を伸ばして美人のお姉さんのケーキ屋の紙袋をひったくって、脱兎の如く車両から出て行く。

  反射的におれは立ち上がった。もともとない運動神経にフルスロットルいれて、男の跡を追いかけた。けれど閉まる扉にガシッと頭を挟まれて、いってええ、おれまたバカになるじゃん。あやしい男は遠のいていく。

  駆け込み乗車ならぬ駆け込み降車に注目を集めながら、扉は開く、おれは解放される。美人のお姉さんもおれが挟まれているあいだに事態に気付いて、電車を一緒に降りたみたいだけど、きちんと確認する暇もない。もうホームの階段を駆け上がっていって見えなくなりそうな怪しい男を追って、おれは走る。

  おれなんでこんな走ってんだろう? だってあいつ突然盗むもんだからびっくりして。財布入ってたし。ほらお姉さんも美人だし?

 おれも泥棒も改札はSuicaでスムーズに通過! 駅員は、大のおとな2人が走っているというイレギュラーなシチュエーションから、なにか異変を感じ取ってもいいだろうに「改札は歩いて通過してください!」と叫ぶだけ、廊下は走っちゃいけませんレベルの注意しかこっちに向けない。機動隊くらい呼んでくれ。

  改札を出てからも兎に角走る。こらー、待てーっ! とか言うべきか? そうしたら、待つわけねえだろバーカ、とか言い返してくれるのか?

  怪しい泥棒は、おれにすごく驚いてるみたいだ。そりゃそうだ。おれのもの奪ったんじゃないのにね。おれと美人のお姉さんはとても釣り合う感じに見えないし、親しげでもないし、明らかに何の関係もなさそう、あるはずがなかったもんな。うるせえやい。

 ひと気の少ない路地裏に入っていったのを追っていくと、男は曲がったところで待ち構えていて、殴りかかってきた。避けることなんてできるはずもなく、右の頬を打たれる。差し出すわけではないにしろ、おれは殴られるとか高校時代ぶりだし、茫然としてたら左の頬も殴られ、でも2回攻撃食らった時点でこいつ思ったより強くないぞ、そう確信する。よく考えたら運動不足のシステムエンジニアの足でも、追いつける相手だもんな。

  自分のが強いとわかったらなんか気が大きくなってきて、おれは果敢に殴り返した。戦いになりそうだ。でも本格的に戦いの火蓋が切って落とされるまえに、美人のお姉さんが追いついてきて、「あそこ、あの人です!」とこっちを指差した。

  制服を着たお巡りさんも、美人のお姉さんと一緒にいた。違います、お巡りさん、おれじゃありません。あ、これ、殴りあってるけど、正当防衛? だよね? あれいまおれ免許証持ってたっけ? 交通取締まりのトラウマが疼いて怯えるおれ。おれはなんでここにいるのか。繰り返されるひよこ。

 警察の人は犯人を間違えなかった。よかった。おれの暴力行為も不問になって、美人のお姉さんはすごく感謝感激してくれた。

  あの、今度お礼を、そんないい雰囲気になりかけて、連絡先とかをくれそうだったけど、こんな美人の連絡先を持ってたら、律ちゃんそれだけでキレるだろうし、「いえ、お気になさらず、当然のことです」そう言っておれは断る。ダンディでジェントル。

「あ、そうだ。でも、どうしても何かっておっしゃるなら、そのケーキとか譲っていただいてもよかったりとか……?」

 挙動不審になされた非常識なおれの提案で、ダンディ&ジェントルは台無しだ。しかし、ついさっきまで頭のなかが財布の危機でいっぱいになってたっぽい美人のお姉さんは「どうぞどうぞ」と快くケーキをくれた。

「あのこれ、箱の中身、何のケーキですか?」

「あ、ホールです。苺ショートの」

まじかよ。やったぜキヨシ! おれたちの大好物だ!


 高台にある最寄り駅から、坂を下って自宅マンションへ向かう。行きは辛いが帰りはよいよい。宵闇のなかに建ち並ぶなかで、街の明かりは、丸くぼやける。色とりどりのたまごが並ぶ。

  こういう美しい夜景のせいで日本列島は宇宙から見たとき光って見えて、それはエネルギーの無駄遣いってことらしい。

  つまりそれは、坂の上から見えるカラフルなたまごに、エネルギーが詰まってるってことだろうか。たまご・にわとりは確かに一苦労だ。毎日は切れ目なく続く。

  けっこう急な坂道で、遠くを見ていたおれは躓きそうになった。坂といえば、昔、キヨシくらいの歳の頃、ダンゴ虫をバケツ一杯に貯め、傾斜のきつい坂の上に運んでは、一気にバケツをひっくり返し、ダンゴ虫の雪崩を起こす壮絶な遊びをしてたっけ。

  なんであんなことやったんだろう。そんな理由のないことを、キヨシもやるだろうか? もしやるなら、車のあまり通らない道でやるよう伝えなければ。ダンゴ虫とキヨシの安全のために。


 おれはケーキ屋の箱を片手に、酔っぱらいによる伝説の、寿司買ってきたぞー、を再現しようとしたが、「なに!? どうしたのその顔!?」と律ちゃんにすごく驚かれて、それどころではなくなった。顔、そんなに腫れてるのかな。

  律ちゃんは薬箱を取りに廊下をUターンしていった。一緒に玄関までおれを迎えに来たキヨシも、おれの顔をみてびっくりして立ち尽くしている。

「お父さんな、ケーキのために戦ったぞ。ケーキもタダじゃないからな」

 キヨシは神妙に頷く。頷かれるのは嬉しい。働きが認められた気がする。

  キヨシはケーキの紙袋を指差した。

「ケーキ、崩れてがっかりなの? それとも美味しく食べれるの?」

 言葉で答えずに、おれは口角を上げた。どうかな、そりゃあ、開けてみないとわかんないな。けっこう走ったし戦いもあったし、ある程度の衝撃はあったと思うけど、崩れてがっかりってほどかというと、どうだろう? 

  おれは知ってて教えないとかではなく、ほんとうにわからない。結末は、開けてみるまで分からない。

 どうやら肝心なことは、思い出せずとも、復活することがあるらしい。覚えたり忘れたり、知らず知らずのうちに、おれはあの物語のなかの、最強のひよこになっている。

(了)